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 幼い頃、笑わぬ官兵衛の事を少しだけ恐れていた。
 どんな時でも表情を崩さず、常に不機嫌そうな顔の官兵衛の事を。
 自分が馬鹿なことをして怒らせてしまわないか、表には出さないがの事を嫌っていないか、心配で不安で怖かった。
 だが、官兵衛が――――時たま差し伸べてくれる手のぬくもりが、その不安を払拭させ、に安堵を与えていた。
 自分はこの人のこの温もりを信じよう。誰がどんな風に彼の事を悪く言っても、自分だけはこの人の事を信じよう。
 そう思っていた――――




人狼の館 2nd night





 刃の先から零れ落ちた鮮血と共に、の両眼から大粒の涙が零れ落ちた。
 を見上げるように崩れ落ちた官兵衛は、焦点の合わない視線を虚空に投げかけるばかりである。
 薄く開いた唇からは、もう呼吸の音は聞こえない。冷徹な彼に似合わぬあの温もりも、やがて消えていくのだろう。そうしてやがて、物になるのだ。この館に残された多くの屍と共に。
 の指先から飛刀が零れ落ち、カランと乾いた音を響かせる。

 半兵衛は呆然と立ちすくむの身体を抱きしめると、頬を濡らす涙をそっとぬぐい上げた。
「半兵衛……さま」
 半兵衛に支えられていなければ、今すぐにでも崩れ落ちてしまいそうだった。
 は半兵衛を選んだ。半兵衛を選び、官兵衛を殺した。
 だが、この選択が本当に正しかったのか、本当に間違いでなかったのか、官兵衛を殺めた今でも分からないのだ。自分は人狼のために、この世のすべてを捨てると誓った。家も家族も大切な人も、すべて捨てると誓ったのだ。
 だから、幾度も偽りの涙を流し、大切だった者たちを死に追いやって来たのだ。
 だが、本当に――――本当にこれで、自分は救われるのだろうか。本当に望んだ世界が訪れるのだろうか。
「悲しまないで、
 半兵衛の優しい口付けが、の頬に触れる。涙の跡をなぞり、慈しむように雨のような口付けを降らす。
は自分の役割に従っただけだよ」
「半兵衛様……」
「俺がもし狂人だったら、俺も同じような苦しみを感じたかもしれない。もしと官兵衛殿のどちらかを選べって言われたら、俺も苦しんだと思うよ」
 だからは悪くない、悪くないんだよ――――
 まるで子供に言い聞かせるように、半兵衛はの耳元で繰り返した。
「他の人たちもそれに従っただけなんだ。人狼、妖狐、狂人、占い師、狩人、人間。この役割がこの狂った館の中ではもっとも大切なんだ。外の世界で何があったなんて関係ない」
「半兵衛様?」
「この館で信じられるのは、ただ一つの真実なんだよ」
 半兵衛はそう呟くと、を抱く腕に力を込めた。痛いほどの強い抱擁には戸惑いその腕から逃れようともがいたが、半兵衛の両腕が離すまいと絡みつく。
「はんべえ……様?」
 の双眸に恐怖の色が浮かぶ。
「ここで信じられるのは唯一つの真実。自分だけが、自分の味方であるという、それだけが――――真実」
 ごめんね。
 そう、小さく、半兵衛が告げるのが聞こえた。
 瞬間、は自分の胸の辺りに燃えるような熱を感じた。驚いて半兵衛の身体を押すと、今までの抵抗をよそに、半兵衛の身体は難なく突き飛ばされた。
 そして――――ぽたり、と。
 己の胸に突き刺さった短刀から、紅い血が滴るのをは見た。
「はんべ、さ……」
 言葉は続かなかった。
 崩れ落ちたの身体に、半兵衛は馬乗りになると、の細首をその両手で絞めたのだ。
「ごめん、ごめんよ……ごめん」
 なぜ謝るのか、なぜ半兵衛がこんな事をするのかには理解できなかった。
 官兵衛は死んだ。
 この館で生き残ったのは半兵衛との二人きり。
 遊戯は終わり、勝利が訪れたのだ。
 なのに――――
「そん、な……」
 真上から降り注ぐ半兵衛の涙の意味を、は薄れる意識の中で理解した。
 何てことだろう。
 自分は何もかも捨て、唯一つの未来のために、大切な者たちをことごとく裏切り、殺したというのに。
 最後の最後でその矛先を誤っていただなんて。
「俺は、のこと、大好きだったよ。でも、駄目なんだ。君のことっ、もう、赦せない」
 半兵衛は噛み付くような荒々しい口付けと共に、の首を強く、締めた。








「ねえ、、官兵衛殿……。もし世界をやり直す事が出来たら、俺はもう一度ふたりに会えるのかな? また三人でくだらない冗談を笑い合える日が来るのかな? ねえ……、教えてよ」








「半兵衛様、起きてください!」
 揺さぶられて、半兵衛は目を覚ます。暮れかけの茜色の空を背後に一人の少女が自分のことを見下ろしている。
 半兵衛は寝起きのぼんやりとした頭で上半身を起こすと、ぽりぽりと頭をかいた。
「もう、こんな所でまたお昼寝ですか? 三成がいつまでたっても仕事が捗らないって怒ってましたよ?」
 そう言って、怒ったような顔をする少女。
 だが、半兵衛は少女のその顔を見上げ、そう……と力なく呟くだけだった。
 長い髪の勝気そうな目をした少女。秀吉夫妻に育てられた愛娘で、子飼いたちにとって姉的な存在でもある。最近では軍師としての才覚を現し、半兵衛を師のように慕っていた。自分に向けられる視線に憧憬以上のものが込められていると知りつつ、半兵衛はあえてその目から顔を反らす。
 よく知るようでありながら、実はその少女のことを半兵衛は何も知らない。
『君はだれ――――? 俺の知っているのは君じゃないよ。君によく似てる……でも、別の女の子なんだ』
 問いかけて、いつもその言葉は発せられることなく喉の奥へ飲み込まれていくのだ。
 今では名前さえ思い出せなくなった少女。胸の内に残る懐かしさと恋しさも、やがて消えていき、当たり前のように目の前の少女へ恋慕を募らせる日が来るのだろうか。まるで彼女がいたその場所を埋めるように。
 半兵衛は何の言葉も返せないまま、燃える茜空を見上げた。

end


セカンド・ゲーム、人間勢力の勝利です。
もう1つのエンディングはこちらから。