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別れの曲





「なあ……僕にはこの世界がそれほど悪いものだと思えないんだ」
 いつもの夕暮れを満たした美術室の中。
 は真っ白なキャンバスに向かい、筆を走らせている。槙島の方は見ない。だが、彼がいつもの彼ではない事は深く理解していた。
「僕は……母親の腹にいた時から、真っ黒な色相を持っていた。そのせいで悪魔だの鬼だのと蔑まれ、親には捨てられるわ、モルモットになるわで碌な事がなかったよ」
 槙島はいつものスーツを着ていない。ゆるいTシャツと足首が露わなタイトなパンツ、こうしていると歳相応の若者らしいなとは思う。
「それでも――――あの日、研究所を抜け出した時、世界はきらきらと輝いて見えたんだ。この世界は美しいと、僕は素直に思った」
 自分は何を――――言っているのだろう。こんな感傷めいた事を口にするなんて、どうかしている。こんな事を言ったところで、槙島の決心は揺るがないだろうに、それでも何かを期待している自分がいる。
「シビュラは狂っているのかもしれない。パラノイアに取り付かれたコンピュータが支配する、ここはディストピアなのかもしれない。だけど……それがなんだって言うんだ」
 槙島はただ微笑みを浮かべていた。
「お前はこの世界の事も、シビュラに支配された者たちも嫌いかもしれないけれど、僕はそんなに悪いものでもないと思うんだ。どんな時代でも、悪も善も同等に存在する。むしろ片方があるからもう片方が作用するんだ。だからここだって、ある意味正常な世界なんだよ」
「君を受け入れない世界であっても?」
「ああ。僕を受け入れない世界であっても。僕はこの世界の、この時代のイレギュラーだった。それだけだよ」
 の言葉は止まらない。どこか感情的な苛立ちを含んだ声音だった。
「自分が受け入れられないから、その全てを否定するなんて子供のする事だよ。どうして受け入れられないのか僕は理解しているつもりだし、相手が歩み寄せないのなら、僕がその分間合いをつめればいい。僕はとして生きるために人を殺した。データを改ざんし、あるはずのものをなかった事にし、偽り続けている。その事実は変わらないし、それが仕方のない事だとか弁明するつもりはないんだ。お前が犯罪者なら僕もそうだ。自分のエゴを通すために他を犠牲にする事に、罪悪感を感じないわけでもない。ただ、天秤にかけた時に自分の方が大切だっただけだ。僕はもしかしたら本当に悪魔なのかもしれない。 だけど……」
 一気にまくし立てるように言葉を紡いだは、そこで言葉を切った。
 どこか、懇願するような顔で、
「僕はそれでも、この世界を嫌いになりきれない」
 槙島はただ微笑みを絶やさずに、頷くだけだった。
「失望したか?」
「いいや。それが君の答えならば、尊重するよ。だけど僕は……行かなくちゃいけない」
 は手にした筆をぎゅっと握り締めた。槙島の位置からの顔は見えないだろう。悟られてはいけない、とは震える声を極力いつも通りに発しようとする。
「お前はお前の意思によって行動している。それはわかるんだ。だけど……言わせてくれよ。それは本当にしないといけない事なのか? それをすると何があるっていうんだ? このまま……僕と……」
 その先の言葉は声にならなかった。
 零れ落ちた涙を、いつの間にか間近に迫っていた槙島が指先で拭い上げた。
 悔しかった。涙を見られたこと以上に、置いていかれる事が嫌だった。
「……付いて来いとは、言わないんだな」
 戯れに口にする。
「言ったら付いてきてくれたかい?」
 まさか、とははっと笑い捨てた。
「僕は今年、卒業するんだ。金持ちの男に出荷されるお嬢様と違い、これから僕は自分の足で生きてかなくちゃいけない。受験だってあるし、新しい住まいだって探さなくちゃいけない。夢だってあるし、やりたい事だってたくさんある……だから」
 だから――――
 その先の言葉は音にならなかった。
 柔らかな口付けが落とされ、は槙島の胸にしがみついた。このろくでなしは、どうせ自分の事なんてすぐに忘れてしまう。楽しいモルモットの一つとしてしか記憶に残らない。だからこんな気持ちは一時的なものだ。嘆くほどの事じゃない。そう必死に、自分を言い聞かせ――――
「ありがとう。迎えに来るよ、いつか、必ず」
 口付けと共に落とされた言葉に、は大粒の涙を零した。




end


置いていかれる者と、置いていく者。
べつに興味を失ったわけではないけど、
一緒にはいれないなとお互い悟ったのだと思います。