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 短い銃声がまだ鼓膜の奥から抜け切らない。
 実感がなかった。これで全てが終わり、幕が引かれたのだと。
 その紙切れに気付いたのは、狡噛がその場を去ろうとした直前だった。風に吹かれて、槙島が握り締めていた紙切れが宙に浮かんだ。
 放って置けば良かったのかもしれない。
 どうせこの男のことだ。ろくな土産など残していないはずなのだ。
 だが、それを無視した瞬間、全ての終わりに余計な杞憂を残すような気がして、狡噛は地面を走るその紙を手に取った。
 紙には女の名が書かれていた。



短い旅の終わりに・後編





「あいにくお前が死んでるなんて知らなかったからな。花も線香もないが、まあお前にはここの風景だけで上等だろう? 月も太陽も綺麗じゃないか。集合墓地より何倍もマシだよ」
 そう言って、地面に――――槙島が倒れたすぐその隣りに腰掛けた少女は、狡噛の目にはひどく幼く映った。
 いくら槙島の関係者とは言え、成人しない子供をこんな所に連れてくるべきではなかったか。わずかに胸に悔恨が生まれ始める。
「人は誰もが孤独で虚ろだ。どんな才能も、どんな関係も取替えが効く……。それがお前の持論だったな? そうだな。そうだよ。誰だって代わりになり得る。だけど、それが何だって言うんだ。代わりを必要とするまで、それが一番だと信じる事は悪い事なのか?」
 誰だって、とは少しだけ悔しそうに呟く。
「誰かの唯一になりたいと思う。もしかしたらそれは適わないかもしれない。でも……、そう思う事すら、お前は代えが効くと言うのか? 僕もお前には……大勢の中の一人だった?」
 違う、と狡噛は咄嗟に否定した。口出ししないつもりで居たが、があまりに傷ついた子供のような顔をするので、思わず口にしてしまっていた。
 大勢の一人であるのなら、わざわざこんな手の込んだ真似はしない。死の直前まで、大切に誰かの名前を握り締めたりしない。
「ありがとう。お前は優しいな」
 は少しだけ笑ったようだった。
 そして、あーあ、と何かを悟ったように呟くと、地面を背に空を仰ぎ見た。
「……何をしている?」
 狡噛の質問に、は視線を動かさないまま答える。視線はじっと夜に交わる夕暮れの空を眺めていた。
「別れを告げている。ああ……、本当にここは綺麗だな」
 は胸の前で両手を組み、そっと瞼を閉じた。頬を撫でていく風が心地いい。こんなにも綺麗な世界があるんだと、心の底から思う。
「まったく。最後の最後で僕は負けたよ。今の今までそういう事なんだと気付かなかった」
 何が。
 狡噛は尋ねるが、はまるで独白を続けるように目を閉じたままだった。
「あいつ……いつか必ず迎えに行くと言っていた。どうせ別れ際の戯言だろうと、僕も本気にしちゃいなかった。だけど……こんな風に、迎えに来るなんて」
「それは……俺の事を言っているのか?」
「お前はきっと自分の意思で僕を連れて来たんだろう。でも、あいつはそれすら計算に入れていた。もし狡噛が僕を連れて来なかったら、そこであいつの負け。でも僕はここに来てしまい、そして気付いてしまった」
「何に?」
 独白を続けるが、ぱちりと目を開いた。
 こいつは僕にはもう不要だ、そう言っての名を記した紙を狡噛に返す。
 メモを受け取った瞬間、狡噛もの意味する所を知った。迎えに行くとはつまり、こういう意味だ。
「おい……」
「なあ、面倒ついでに二つ頼みを聞いてくれないか? もうしばらくしたら、僕の身体を元の学園に届けて欲しい」
「待て。そんな事が……いや、可能とかそういう問題じゃない。それが何になる? そいつはもう、居ないんだぞ?」
「居ないからだよ。ここにこなければ気付かなかった。そういえば僕も……元々いない人間だ」
 が笑ったかと思うと、その瞳からつうっと透明な雫が流れた。
 参ったな、と自嘲的な笑みを浮かべ、はそれを流れるままにした。頬を伝った涙が零れ、じわりと渇いた土に吸い込まれる。
「僕を僕たらしめるものとは何だ? 僕には名前も、肉体もない。僕は顔のない化け物だ。その化け物を、槙島は唯一愛してくれた。あいつだけがの中から僕を選び、僕を僕にしてくれた。僕の一生とは、つまりあいつの感覚のうちにあったんだ」
「違う……あんたは槙島に出会う前から、人格として存在していたんじゃないのか?」
 狡噛は否定する。だがその言葉をも否定する。
「“それ”はどうすれば存在できるんだ? 意識すること? そこに自分が在るという事? 僕は僕の感覚が僕のものなのか、他の誰かのものなのかよく分からない。僕らは無数に生まれ、分裂し、やがて消えていく、水溜りの中の気泡のようなものだ。自分の感覚すらあてにならないのに、僕はそこに在ったと言えるのか?」
 その問いかけは、狡噛には不可解すぎた。
 多重人格と呼ばれる彼らが、どこから生まれどこへ行くのか、その謎は誰にも明かされていないのだ。
「僕はいつから僕であったのかよく分からない。だけど、あいつと過ごしていた時だけは、その実感があったんだ」
 こんなこと、思い出したくなかった――――
 は再び大粒の涙を零した。
「こんな想いをするなら、僕はずっと顔も名前もない怪物で良かった。集団の中に埋もれるその中の一つで良かったんだ。こんなっ、辛くて、苦しくて、悲しくて、切なくて……どうしていいのか分からなく」
 なぁ、狂犬。が狡噛を呼ぶ。
「お前の銃で僕を撃ってくれよ。フリだけでいいから。これ以上……僕には耐えられない」
 狡噛は思わず後ずさった。銃を向けるという事、それが喩え振りであったとしても、が望むものは一つだ。
「やめろ……俺に、また……」
「大丈夫だ。お前は僕を殺さない。血も出ない。苦しまない。だけど、このままじゃ……僕はきっとおかしくなってしまう」
 お願いだよ。こんな感情は……僕には重過ぎる――――
 の懇願に根負けし、狡噛はゆるゆると銃を象った己の指先をに向けた。
 それを空に向けて弾いた瞬間、の唇が小さく槙島の名を呼んだ気がした。
 音のない銃声が静寂に響き、は地面に崩れ落ちた。まるで本当に死んでしまったかのように、安らいだその顔に狡噛は恐怖すら感じた。
 この少女は決して善人ではなかったし、幾つもの反社会的な行為を繰り返して来たのは事実だ。だが、こんな風に苦しみ、もがき、狡噛に死を懇願せねばならないほど追い詰められる必要があったのだろうか。
 もしもここまで槙島の計算に含まれているのだとしたら、あの男はどこまで人を喰った奴なのだろう――――それともそれは、情愛や親愛と言った言葉に、置き換えることが出来るのだろうか。
 やがて、は目を開くと、むくりと上半身を起こした。頬を濡らす涙を無造作に拭い上げ、狡噛を見上げる。
「行きましょう、狡噛さん。ここにはもう誰もいません」
 心なしか声音さえ変わっているように聞こえた。
「あいつは……」
「もう居ません。ここであの人と果てる事を選びました」
 少女は――――新しくを名乗る少女は、何の感慨もなく立ち上がると、制服の土ぼこりを払い狡噛の横に立った。
 振り返りもせず歩を進める少女に、狡噛は問いかける。
「お前は……誰なんだ?」
「さあ……。顔のない亡霊。の集合体。Black Mare。そのように呼ばれた事がありますが、そのいずれも正しい名ではないように思います。水泡の溜まった水溜りのようなもの。浮き沈みを繰り返し、私たちはこれからもそれを探すために生きるのでしょう」
 生まれ、分裂し、やがて消えて――――
 それを繰り返しながら探すのだろう。
 たった一人であった頃の彼女が見つけられなかったものを。生まれては消えていった幾人もの彼女たちが探したものを。
がそうであったように?」
「ええ。がそうであったように」




 は眩しそうに目を細めながら、透けるように美しい槙島の白い頬に手を添えた。
「綺麗な色……」
 その手に自分の手を重ね、槙島は寂しそうに呟く。
「僕に色はないよ。透明だ。誰の目にも映らない。何色にもなれやしない」
 は少しだけ笑った。泣き笑いのような顔で。
「じゃあ……一緒だね。僕も他の色になりたかったけれど、なれなかった。本当は憧れてた。羨ましくて、嫉妬もしていた。お前のような綺麗なものに」
 槙島も少しだけ笑う。寂しげな、だがどこか満足したような笑みで。
「ああ、僕達は一緒だね。ちょうど僕も嫉妬していたんだ、君に。何者にも染められない完璧な色。嫉妬して、憧れて、それ以上に愛していた」
 決して交わる事のない色を重ねあい、二人は額を合わせる。
「本当は少し後ろめたかったんだ。君と抱き合っても変わる事のない自分が」
「それは僕も同じだよ。お前に愛されても変わる事の出来ない自分が、悲しかった」
 でも、本当はそんな事はなかった――――
 今ではこの色を、あなたに愛された色を、誇りに思う。
「好きだよ」
「僕も」
 透明な白と、深淵の黒。
 どちらともなく手と手を取り合って。
 一つの影になって、光の中へ消える。




end


安息の場所から飛び出して、たった一つの肉体を手に入れた猟犬。
大切なものを護る為に自ら和から抜けだしたドクター。
そして、誰かの特別となって自分を手に入れた代理人。
彼女たちは全員がでしたが、
最期にはべつのとしての存在を本当の意味で手に入れる事が出来ました。
同じ名前で個々の名を持たず、役職によって代えが用意できてしまう。
感覚すらも共有し、自分と他者との境界が曖昧だった彼女たち。
これはその黒い亡霊だった彼女たちが、名前を手に入れる物語です。


ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。