毎日のように耳にしていたサイレンが、ふと聞こえなくなったと思った時、その男は僕の前に現れた。
荒んだ空気を纏った狂犬のような男は、僕を見るなり名も名乗らずにこう聞いた。
「だな?」
短い旅の終わりに・前編
「なあ、狂犬。こういうのを僕の知識の中では拉致と呼ぶんだが、お前どう思う?」
背にへばりついたまま、はバイクを疾駆させる男の背に問いかけた。
男は答えない。ろくに名乗りもせず、男はバイクの背にを乗せ、遠いどこかへとを連れて行く。最初は暴れもしたのだが、男の腹の前に腕を組むような形で手首を束ねられ、手錠をかけられてしまってはもはや抗いようもない。
どこへ行くかは知らないが着いたらこいつは血祭りだな、そんな事をぼんやりと思っていると、男の口から懐かしい名が響いた。
「槙島」
ここしばらく、とんと耳にしなかった名前だ。
「なんだ……。お前、あのバカの知り合いか」
「知り合いじゃない」
「じゃあ、なんだ? お友達ってふうにも見えない」
茶化すように尋ねると、男は振り返らないまま、
「仇だ」
と、短く答えた。
は少しだけ目を見開き、すぐに興味がなさそうに、ふうん、と曖昧な返事をした。
「なんだ……、あいつ、死んじゃったのか」
男は何も答えなかったが、は槙島がすでにこの世にいない事を何となく察していた。もともとこの世界とは相容れなかった。
純粋すぎたのだろうなと思う。彼の持つ色相と同じように、槙島はどれだけ犯罪に手を染めようとその心を穢さなかった。
だから、きっとこの世界では長く生きられないのだろう。そうも、きっと本人も思っていたはずだ。
「お前こそ槙島とはどういう関係だ? 女か?」
それは暗に、仇を取るかと聞いているようですらあった。
ははっ、とは短く笑い声をあげる。
「お前僕の事も知らずに攫って来たのか。迷惑な奴だな」
「茶化すな」
「べつに。何度か寝た事はあったけど、それだけだよ。それ以上に特別な関係じゃない」
男に話しながら、は槙島と過ごした数ヶ月の月日を思い出す。
突然現れて、勝手に人を暴くような真似をして、さんざん振り回して、突然消えて。まったく自分勝手な奴だった。だけどあいにく、自分も大概自分勝手な人間なのだ。
は彼の孤独を知っていながら、寄り添おうとは思わなかった。彼もまたそんなものを期待などしていなかった。触れて、口付けて、そして離れる――――白と黒の自分たちは、たまたま出会ったがために化学反応のようなものを引き起しただけなのだ。
「むしろお前みたいなのが僕のところを訪れた事に驚いている。まさかお前、あいつと寝た全ての女をこうやって拉致ってるんじゃないだろうな?」
揶揄するように言ってやると、男は振り返らずに、黙れ、と小さく告げた。説明する代わりに、男は肩越しに小さな紙をに手渡した。
罫線の走る白い紙の上には、の名前との通う学園の名前だけが記されていた。
槙島の筆跡だった。
なんだこれは、と胸中でごちる。遺書の代わりにしたって、何もなさすぎるじゃないか。こんなものを死の間際まで持ち続けるなんて、どうかしている。
白い紙に走る槙島の筆跡を見ていると、少しだけ胸が熱くなった。バカだな、と小さく呟く。
「あいつ……死に際の言葉なんて残すなら、もっとマシなものにすればいいのに」
道すがらは暇つぶしと称して、と槙島の話を男に語った。
突然、目の前に現れた免罪体質の槙島。生まれてこの方晴れた事のない真っ黒な色。自分の中に住まう幾人もの人格たち。そのうちの一人である自分を、妙に槙島は気に入っていた事。
愛情と呼ぶには殺伐としていた関係だと思う。
互いを思いやっていたわけでもない。言いたい事と、やりたい事を、互いにぶつけただけだった。縋るわけでも、寄り添うわけでもなく、ただ過ぎていく季節のようなもの。
それは突然現れて、突然去っていった。
「僕はお前を恨んだりしないよ。僕にはその資格はないし、あいつは間違いなく社会の悪だった」
広大な穀倉地帯を眺めながら、は男に向かって語りかけた。の聞き分けの良さに、男は少しばかり戸惑っているようでもあった。
そういえば大抵の大人はの本当の顔を知るとこういう顔をするのだったなと、はくすりと笑みを零した。槙島は全然そんな事はなかったから、久しく忘れていた感覚だった。
金色に輝く実りの大地をかき分けながら、男はぽつりぽつりと槙島と自分の事を語った。
男は元公安局の執行官で、名を狡噛慎也と言った。もしかしたら槙島の言葉の中に幾度かその名が挙がった事があったのかもしれないが、特に興味もなく聞き流していたため忘れてしまった。
狡噛は槙島を追って、この北陸の穀倉地帯までやって来たのだと言う。管理施設の中で死闘を繰り広げ、ついに狡噛はこの地で槙島を追い詰めた。
麦畑をかき分け、緩やかな丘を上り、そしてここで足を止めたのだと言う。
何の変哲もない丘の傾斜。そこが槙島の墓だった。
「なんだ……お前、こんな所に居たのか」
思わずは何もない地面を見つめながら、そう呟いた。
end
「Black Mare」後日譚です。
本編以上にシリアス・暗めかも。