Black Mare23
「チェ・グソンは死んだよ」
唐突なく告げられたその言葉に、は思わず手にしていたマドレーヌを取り落とした。琥珀色の紅茶を湛えたティーカップの上に、取り落としたマドレーヌがぷかりと浮かぶ。
「そうか」
はわずかにそれだけを答え、伏せ目がちにしてぷかりと浮かぶ洋菓子を見つめていた。
「あいにく遺言めいたものはないんだが、これを君に見せてあげたいと思ってね」
槙島はそう告げると、チェ・グソンの携帯端末をに差し出した。所々、破損しているそれは、チェ・グソンの末路を語っているようでもあった。
液晶画面に浮かび上がった文字は、とある厚生省管轄の施設の事や、先天的な色相の障害例についてなど、様々なレポートで埋まっていた。
「君に興味があったんだよ。君の事をもっと、知りたいと思っていた」
の語らない過去を、チェ・グソンは密かにデータの蓄積から知ろうとしていた。それを知られればがひどく怒ると思い、ずっと黙っていたのだろう。
「あの知りたがり」
は唇を噛んで呟いた。
は逡巡するように視線をテーブルの上に走らせた。ぱちぱち、と瞬きを繰り返す。
迷っている。暴かれる事を嫌ったが、今こそそれを語るべきなのかと悩んでいる。
やがては最後の瞬きを終えると、静かに告げた。
「べつに、特別な話なんて何もないんだ」
自分が生まれる前に母親が死んだと知ったのは、いつの頃だっただろうか。
母は日に日に大きくなる腹を抱え、徐々に狂っていったのだと言う。生まれる前から異常な犯罪係数を宿した我が子を、悪魔と恐れ、そして自らのサイコパスも濁らせた。
そして、臨月になると、ついに耐えられなくなり自ら命を絶った。は産婆ではなく、外科医によって取り上げられた。生まれた瞬間、医療ドローンたちの警告を告げるアラートが、鳴り止まなかったのだと聞く。
幼い頃の記憶は曖昧だ。
まだ人格として確立しておらず、主人格であるが存在していた頃だからだろう。
研究所と呼ばれる白い部屋で育てられた。来る日も来る日も絵を描いて、白衣を着た偉そうな医者たちが小難しい話をしていた。
逃げ出そうと決心したのはドクだった。その時すでに、ドクは人格たちのリーダーで、ドクの指示する事に間違いはなかった。
いつの間にか主人格はいなくなっていたが、誰もその事を気にする者はいなかった。それよりも“みんなの”を護る事の方が重要だった。ドクは人格たちを指揮して、研究所を襲撃した。
人を殺すという事に、躊躇いはなかった。どうやら自分の犯罪係数は極悪人並に高いらしいのだから、自分がそれをする事に問題はないと思った。
初めて見る外の世界は、きらきらと輝いていた。
先のことなど何も考えていなかったが、皆の力を合わせればどんな場所にだっていけると信じていた。
『仮宿を探しましょう』
ドクが言った。
『戸籍も必要だわ。あとダミーの保護者もね』
そしてはデータを偽りつつ、ゆっくりとこの社会へと溶け込んで言った。
僕は後から知った事だけど、とは前置きする。
「の母という人は、いわゆる検体実験の代わりに金銭を得ていた。人間の色相は胎内にいた頃の環境で、誕生後も良好に保てるのではないかという実験だ。“いい人間”を人工的に生み増やすテストだよ」
の唇に悪い笑みが浮かぶ。おぞましいだろう、と嘲るような声が言う。
「どこの誰とも知れない男の精子を受け入れ、その子供を産むだなんてとても正気の沙汰ではないよ。しかも、一人ではないんだ。何人も何人も、子供を生んだ」
はしっとりと紅茶に浸ったマドレーヌを引き上げ、それを口に放り込むと咀嚼した。喉の奥に流し込むように、紅茶を一口嚥下する。
「少子化は国家の憂う深刻な問題だ。そのために産んでくれる子供は多いほうがいいのかもしれない。実験が済んだら、普通に社会の構成員とすればいいのだからね。だが……僕は無神論者だけど、罰当たりな事だと思うよ。人間をまったく……なんだと思ってるんだ」
は無感情に言葉を続けていたが、最後の一言には隠しきれない怒りが込められていた。
そんな下らない誰かのエゴのせいで、どういうわけか真逆の存在が生まれてしまった。それがだった。
「神様というのが居るならきっと物凄く怒っているだろうね。人の遺伝子を操作するのは、大罪なんだよ。だけど奴らはそれを神罰とは受け取らず、悪魔の所業だと思い込んだ。どっちだって同じだろ。要は僕を世界から隔離したんだ」
怒りの中に寂しげな表情が浮かぶ。神の仕業であろうと、悪魔の所業であろうと、漆黒のサイコパスを宿すに、この世界に居場所はなかった。実験結果のイレギュラーなケースとして、データとしてしか存在を赦されなかった。
は大粒の涙を零すと、物語を締めくくった。
「これでお終い」
まるで童話の終わりのようだった。
槙島はの涙が止まるのを待った。が一頻り涙を零すと、槙島はの涙で濡れた顔を見つめ、静かな声で問いかけた。
「一つ、質問を許してくれるなら」
が怪訝そうな顔を上げる。
「本物のはどこへ?」
はぱちり、とひと瞬きすると、抑揚のない声で答えた。
「知らないよ」
end
ついにグソンさんも去ってしまい、
そろそろ物語の結末です。
物語の結末というのは、いつも何故だか物悲しいものですね。
それはそうとこれからライ麦症候群に陥りますので、
(今更ですが)パロディが嫌いな方は注意です。