Black Mare21
はいつものように不機嫌だったが、彼女が不機嫌でない時があっただろうかと想像する事すら槙島聖護にとっては楽しかった。
唇が顔の輪郭を滑り落ちていく。やめろ、と言うようには槙島の顔を押しのけたが、槙島はその手を取り指先に口付けた。
「恥ずかしい奴」
は頬を染め上げ悪態をついたが、槙島は愛しそうにの爪を口に含んだり、間接の一つ一つを確かめるようにキスをした。
戯れのような愛撫に、はいつもどうにもならなくなる。
乱暴に組み伏せでもされたら、遠慮なく股間を蹴り飛ばしてやれるのに、こういうくすぐったい愛撫はどう反応していいのかわからず苦手だった。手の平でじっくりと溶かされているような気持ちになる。ゆっくり、じわじわと殺されるみたいに。
「あの絵……見えないと思ったら、お前が持っていったのか」
意識をべつの場所へ移そうとするように、は部屋の中に視線を巡らせ、その中に一枚の絵を見つけた。
赤い獣にまたがる女の絵。大淫婦バビロン、またの名をマザーハーロット。
「ああ。勝手に持って行って悪かったよ。気に入っているのなら、」
「べつにいい。絵を飾る趣味は……ないんだ」
指先を丹念に舌で舐められ、はほうっと切なげなため息を漏らした。
槙島の唇がの首筋に降りてきた。
「あいつは……怪物の絵を描くのが好きだった。理由を聞いたことはないけれど、自分たちは……怪物なんだと言っていた。中でもこの赤い獣……僕たちはこの獣の首なんだって」
「興味深いね」
槙島は撫でるようにキスを繰り返すと、続けて、と低く響く声で言った。
「この怪物の名前、お前は知っているか……?」
「さて。腐敗したローマ・カトリックを象徴したものとしか。七つの獣の首は七人の王を示すのだと言うね」
「そうだ。即ち……ユリウス・カエサル、アウグスト、テベリオ、カリグラ、クラウデオ、ネロ、ガリバー」
「皇帝ネロの迫害は有名だね」
は頭を後ろにのけぞらせながら、そうだな、と呻くように答えた。
「首のそれぞれには王たちの名前がある。だが、この獣には……名前がない。黙示録でもThe Beastとしか呼ばれない。その獣に……あいつは深く共感した」
はぁっとは切なげに溜息を漏らした。槙島の唇は首筋を流れ、喉を軽く食み、シャツの襟から除く鎖骨の上を愛おしそうに撫でた。行ったり来たりする唇は、の白い肌に紅い花を散らすのを楽しそうに繰り返していた。
「この獣も悪魔……サタンと因縁がある。ヨハネ黙示録にはサタンが姿を変えた、赤い竜というのが登場するんだ。火のように赤く、七つの頭と十本の角があり、頭には七つの冠をかぶっている」
「……似ているね」
「ああ。獣の描写と似ている。意味する事は……同じなんだろう。七つの首と十本の角はローマの象徴で、キリスト教を迫害したもの、つまり彼らにとっては悪魔だ。その竜が七つ首の獣に錫杖を渡し、大いなる権威を与える」
「似ているね」
槙島はもう一度繰り返し、は、ああ、と頷いた。
悪魔と呼ばれ生を受けた自分たちと、この獣を猟犬は似たものと感じていた。サタンに権威を与えられたから、自分たちの色相はこんなにも濁ってしまったのだと、そう思っていたようだ。
もちろん、それが悪であるなどとは思っていなかった。自分たちにとってそれは至極、普通な事だからだ。
だが、もしかしたら自分たちはこの獣なのではないかと夢想する事は、どこか彼に安らぎを与えた。正体の見えない亡霊のような自分たちに、形を与える行為。喩え思い込みであったとしても、目に見える何かで確認するという事は彼に安堵をもたらしたのだった。
「獣にまたがる女性は?」
の喉元に唇を滑らせながら、槙島は横目に猟犬の描いた絵を見た。しゃれこうべをそのまま首の上に乗せたような女の顔。豪奢な装飾品を纏い、瑞々しい肉体を持ちつつ、その頭はすでに死者のものである。
「分からないか? 彼女は大バビロン。皇帝たちを支配する者。あいつはただの……ハリボテだと言っていたけれど」
「ああ。あれが……君たちの母か」
は槙島の頬に手をあて、自分の方を向かせるとキスを強請った。これ以上の会話を嫌がるように唇をあわせ、言葉を絡め取るように舌を奪う。
濃厚な口付けを交わしながら、槙島はふと考えた。
あれは肉体の母なのか、精神の母なのか。前者ならばを産み落とした者、後者ならば人格たちを産み落とした自身だ。
ぼんやりと思考を広げていると、が唇を離し、槙島の首に両腕を絡み付けた。濡れた目が至近距離から槙島を見つめる。
「そんな事より、僕の事を考えろ」
淫らに誘うその瞳に導かれ、やがて槙島はの柔肌以外のものを考えられなくなった。
end
少し落ち着いたので、赤い獣の話など。
真相に近づきそうになったので、
柄になく槙島を誘惑するヒロインを書いてみたかっただけ。