Black Mare18
簡素で乱雑なバラックの中だった。綺麗にホログラムで整えた市街地から少し外れれば、偽るという事を忘れた廃棄区画が東京にも広がっている。自分の生活空間のすぐ側にこんな場所が残っているのかと感心する反面、ここがこいつの最後の場所なのだと思うと呆れた。
「お前……これで良かったのか?」
初めて見る男の顔。
少年を抜けたばかりの年頃。人工的な目と、髪の色をしている。
「良いはずがないだろ。俺はまだ何もかもやりたりねェよ」
「一週間で公安に尻尾を掴まれたくせに……。だからお前は、考えが浅いんだ」
穴の開いたソファに横たわる男へと、はゆっくりと近づいた。機械仕掛けの犬たちがへ向かってうなり声を上げたが、男が一声かけると静かになった。
「なあ……なんでなんだろう」
「何が?」
「なんで僕たちは……分かれてしまったのかな?」
の問いに男は口角を吊り上げて、知らねェよと呟いた。
「あのイカれた実験のせいかもしれないし、色相のせいかもしれない。そんな事、ずっと俺だって考えてた。でも答えが、見つからないんだ」
がソファに腰を下すと、男は甘えるようにの膝の上に頭を置いた。体温のない身体に、は目を伏せる。
「お前……独りになってどうするつもりだったんだ? こんな事したって、生きていけないって分かってただろ?」
喩え機械の身体を手に入れても、そこにこれまでと同じ意識が宿るならサイコパスを偽ることは難しい。システムに見守れた社会を欺くには、知識と技術を兼ね揃えた人格たちと離れる事は出来ないはずだった。一人で生きるにはここは、敵が多すぎる。
だが、男は首を横に振った。分かってねェなぁ、と溜息混じりに呟く。
「偽者の身体でも、お前たちと離れても、俺は俺になりたかったんだよ。一週間でも生きられりゃ、俺は満足だ」
そしてはぁっと気だるげな溜息を付く。
上下する彼の胸の端から、オイルのようなものが漏れているのが分かった。生身の人間ならすでに死に至っているであろう負傷。すでに公安の者と交戦した後なのだろう。
「なあ、猟犬。その身体で見た世界はどんなだった? 僕たちを裏切った社会はどんな風にお前の目に映ったんだ?」
男はくくっと喉の奥を震わせて笑う。サイコーだったぜ、と満足げにつぶやく。
「好きなモン食って、酒をたらふく飲んで。ヤバい薬やったり、女を抱いたり。車も運転した。キスをしたり、猫を撫でたり、公園でぼーっとしたり、噴水に飛び込んだり、アイスクリームを舐めながら歩いたり……すっげぇ楽しかったぜ」
は、ふふっと笑みを零した。その瞬間、の両目から涙が零れ落ちた。
「なんだよ、それ……。羨ましくなるじゃないか。よせよ、僕まで非行に走ったらドクが泣く」
「お前じゃ無理だよ。お前はイイコちゃんだから」
「なんだそれ、ナマイキだな……犬のくせに」
動物を撫でるような手つきで、は男の頭を撫でた。気持ちよさそうに男は目を細める。その額に、ぽたぽたとの涙が降り注ぐ。
「なあ……なんで泣くんだよ」
男は怪訝そうに目を細める。
「知らないよ。でも、泣きたくなるんだからしょうがない」
「ちっ、やっぱお前じゃなくてドクを呼んだ方が良かったのかな。あいつなら……絶対涙なんて流さない」
「そんな事ないよ。ドクだって……お前のこと、大切だったよ」
男は視線を反らし、そうかな、と小さく呟いた。も、そうだよ、とそれに応えた。
しばし二人は沈黙し、カラカラと換気扇の音だけが部屋を満たした。老犬を見取るときはこんな気持ちなのだろうかと、はぼんやりと思う。
「なぁ……。あの槙島ってヤツ……、そんなに悪い奴でもないかもしれないぜ?」
「どうして。悪党だろ?」
「悪党でもさ。なんか……お前と似たところあると思うよ」
僕はそうは思わない、の拒絶に男は少しだけ笑んだ。まあいいやと大きく伸びをして、うつぶせになると胎児のような格好で縮こまる。
「なんだろうな。別のものになって初めて気付いたけど、お前……すごく人間らしいよな」
「普通の人間だよ。僕たちは全員。お前だってそうだ」
「ははっ、こんな身体でもか? やっぱお前は、ちょっと違うよな。俺とも、ドクとも、他の人格たちとも違う。だから……あいつに気に入られたのかな」
「最後のは要らないよ」
そうが告げると、猟犬はくしゃりと顔を丸めて笑った。
遠くの方でパトカーのサイレンの音がして、猟犬はさらに身を縮こまらせるとの腹部に額をこすり付けるようにして目を閉じた。
「なあ、俺……人として死にたいよ。あんなワケわかんねぇ銃で撃たれるのはごめんだ」
「わかってる」
は猟犬の頭を撫でながら、ゆっくりともう片方の手を首に回した。
力をこめると、金属が軋む音がした。の爪に人工皮膚の塗料がこびりつく。
それでもは力を緩めなかった。身体の全体重をかけて、猟犬の首を絞める。
「なあ……新しい猟犬にはさ、せめて名前……つけてやってくれ――――よ」
重く鈍い破壊音がして、猟犬の首の骨が折れた。エラーを意味する機械音が鳴り響く。見開かれた瞳には砂嵐が映っていた。
は男の首を抱え、小さく呟く。
「オヤスミ、僕のケダモノ」
バラックの階段を降りると、階下で槙島がを待っていた。
の抱える丸い包みを一瞥し、理解する。
「どうするのかな、それを」
足を止めず槙島の前を通り過ぎていくに問いかける。
「埋めてやるよ。どこか静かな場所に」
は包みを少しだけ剥ぐと、その額にキスをした。
機械の頭部。見知らぬ男の顔。だが、そこにはかつて共に育った猟犬の魂が宿っていた。
槙島はの頭に手を添えると、そっと抱き寄せた。てっきり抵抗されるかと思いきや、は素直に身を任せた。
見開いた両目から流れる涙が、槙島のシャツを濡らす。
「ああ、君の好きにするといい。それは君の大切な犬だ」
end
安全に管理された身体から抜け出しても、自分が欲しかった猟犬。
人々がシビュラを信じるように、
ヒロインにとっても自分たちの秩序は絶対なものだったので、その心は複雑でしょう。
猟犬に投げかけた最後の台詞は、とあるシューティングゲームより。