Black Mare16
喉元に触れた槙島の指先は、冷酷な微笑と対照的に温かく、は戸惑いを覚えた。
「槙島……お前、なにを」
ゆっくりと、槙島の指先に力がこもる。苦しくはないが、まるで真綿で首を絞められるような奇妙な恐怖が背を駆け上がった。
「黙って。これから話す事は君ではなく、君の中の人物たちへのメッセージだ」
「なに……」
「ドクター、聞いているのだろう。君はすでに僕の意図を理解しているはずだ。だから余計な手間は省くとしよう。僕の用件は唯一つ、代理人の彼女を貰い受けたい。要求が受け入れられなければ、を殺す。以上だ」
「はっ……!?」
は槙島の言葉に目を白黒させた。
貰い受ける? を殺す? こいつは何を言ってるんだ!
「お前……お前、正気か!? 僕たちを殺すだと? ふざけるな! その前にお前を殺してやるっ!」
は喉に絡みついた槙島の手の平を引き剥がそうと、渾身の力を込めた。少女のものと思えない圧力が、槙島の手の平に集中する。だが、力は拮抗し、完全に槙島の束縛から離れるには至らなかった。
「どうだろう。考えようによっては悪い取引ではないと思う」
「どこがだ! 僕らに何の得がある!?」
は吼えるように叫んだが、槙島との会話は一方通行だった。槙島の言葉は、代理人であるに向けられていない。あくまで彼女の中に住まう者たちへ向けられている。
「君たちは僕と言う庇護者を得るも同意だ。僕はきっと役に立つと思うよ? 猟犬よりも上手くウサギを狩ってみせよう」
「そんなもの……っ!」
「では、キツネの毛皮は? クマの剥製でもプレゼントしようか?」
「要る、か!」
は大きく口を開くと、槙島の手の甲に勢い良く噛み付いた。肉を裂いて、隙間から血が溢れ出す。
だが、槙島は痛みに顔をしかめるどころか、微笑を浮かべてもう片方の手での頬を撫でた。愛おしげに、まるで映画の中の恋人たちがそうするように。
「僕は今すごく楽しいんだ。こんな風に心が躍るのは久しぶりだと思う。僕が君に与える言動一つ一つに、君はすべて反応を返してくれる。怒ったり、拗ねたり……それが僕はとても嬉しい」
は槙島の手に噛み付いたまま、盛大に顔をしかめた。もし口が自由ならば、お前は何を言っている、と真面目に突っ込みを入れたところだろう。
「なぜ君でなければならなかったのか、僕にも確かな事はわからないけれど。どうかな、人格たちの中で君の色相が一番深いからだろうか。誰よりも深く、悪魔に近い場所にいるにもかかわらず、君はとても純粋で人間らしい顔をする」
「……?」
「タロットカードで表すなら、君はきっと0のカードだ。すべての始まりを意味する、愚者のカード」
未熟で、無計画。物事を好意的に受け入れる楽観主義者であり、気に入らない事に癇癪を起こす我侭な子供。
「偉そうな口を利いても、君はまだ子供だよ。僕やドクの考えには至らない」
「なん……お前が! お前が僕たちの事を知ったように言うな!」
は槙島の胸倉を掴み上げた。だが、怒りを募らせれば募らせるほど、槙島の考えが読めなくなる。共に在ると信じていた他の人格たちが、遠くなる。
「違う……僕は、代理人だ。僕が人格たちを護らなきゃ」
「それはただの役職だよ。そんなものにアイデンティティを求めない方がいい。そうでなければ君も取替えの利くパーツの一つになってしまう」
の両手がさらに強く槙島の胸倉を掴んだ。
だが目には動揺が走っている。こんな風に真正面から否定された事などないのだろう。自らの役割に疑問など抱いた事はない、それをすべて信じて来た。
「なんで……なんでそんなこと言うんだよ。お前なんて……何も知らないくせに」
泣きじゃくる、子供のような顔。
槙島が両腕での身体を抱きしめると、は抵抗なくその胸にもたれかかった。は苦しげに呻くと、親を呼ぶようにドクの名を呼ぶ。
「ドク、ドク。槙島が僕を虐める。言ってやってよ。そんな事ないって。僕はこんなの……」
その瞬間、抱きしめたの身体から力が抜けた。
そして次の瞬間、離せとでも言うように、の手が槙島の胸を押す。顔を上げたは、もはや涙を流してはいなかった。
「……あまりあの子を虐めないでくださいな。仰るとおりまだ子供ですのよ」
ドクは気だるげな声を発しながら、優雅な仕草でソファへ腰を下した。
「こうでもしないと、出てきてくれないと思ってね。答えは?」
ドクは槙島を一瞥するように見上げ、ふうっと溜息をついた。
「仕方ありませんでしょう。の命以上に大切なものはありませんわ」
「話が早くて助かるよ」
交渉成立とばかりに槙島は右手を差し出したが、ドクはそれを無視した。僅かなりとも反抗のつもりなのか、槙島は笑みを浮かべたままそれを引っ込めた。
「でも、先生。どうしてこんな事をなさるの?」
「どうしてかな。大人たちが子供を誑かすのは気がひけるし、彼女とは真面目に付き合いたいと思ったからかな」
「……私にはよく理解できませんわ」
「君に誑かしている自覚がないからだろうね。本人にも誑かされている自覚がないだろうが。だから君たちの掲げる崇高な理想に酔って、彼女が自らをシステムのパーツのように語るのに腹が立った」
「少なくとも先生は、私たちではあの子の代えにならないと思っているのに?」
ドクの言葉に、槙島は少し笑んだ。そうだよ、と頷く。
「僕にはという集合も、代理人という記号もどうでもいいんだよ。僕が欲しいのはただ一人だ。他の人格では代わる事は出来ない。君でもだ」
「………」
「なにも他の人格を皆殺しにしようと言ってるんじゃないよ。ただ、代理人の彼女に何かあったとしても、消さないで欲しいと、上位人格である君にお願いしている」
「あら、お願いでしたの? てっきり脅されているんだと思いましたわ」
ドクはふふふ、と笑みを零すと、ゆっくりと立ち上がった。窓の外に浮かぶ、青白い月を緩慢な仕草で眺める。
「先生。私たちはただ生きたいだけなんです。なのに、どうしてこんなに生きることに犠牲が付きまとうのかしら」
「それが生き物にとって本来あるべき、自然な状態かもしれないよ」
ドクは振り返ると、にっこりと槙島に向かって微笑んだ。
そして、
「ごきげんよう」
その唇から別れの挨拶が漏れた次の瞬間、の目は恨みがましい睨むようなそれに変わっていた。
「聞いていたかな?」
代理人に戻ったに槙島が問いかけると、はぷいと顔を背け玄関の方へと足を向けた。裏切られた子供のような表情は、ぶつけ先の無い怒りを持て余しているように見えた。
「泊まっていったらどうだい?」
遠まわしに同衾を誘うと、は黙れ、と厳しい声音でそれをはねつけた。
「ドクが決めたんなら、それが最良の選択なんだろ。だから僕はお前の口付けも、抱擁も受け入れよう」
口惜しそうに、心底悔しそうに、は言う。
玄関の扉を開き、睨むように振り返って、
「だけど、なんでもお前の思い通りになるなんて思うなよ。僕は……お前なんてだいっ嫌いだ」
end
選んだ、選ばれたという事でお互い特別な存在なはずですが、
ヒロインはまだ集合体から抜け切れないので、依存している状態。
それを悪いことだと思ってないし、犠牲になる事も厭わないそんな態度に、
イラッと来てついちょっかい出しちゃった槙島さん。