は積み上げられたコンテナの上に腰を下ろし、くすくすと笑みを零していた。
眼下には機械の犬にはらわたを食われる人間の死体。もしかしたらまだ生きているのかもしれないが、こうなっては死体も同じだ。開かれた腹部から鮮やかなピンクをした臓物が、肉片になって飛び散る。
「本来、生物は他の生物を喰らう事で命を保つ。それが自然界の大原則であったにも関わらず、嘆かわしいかな、今では生き物を口にすら行為すらおぞましいと考える者たちすらいる」
重厚な主旋律に重なって、男の声が告げる。決してオーケストラのハーモニーを邪魔しない、美しい声だ。
「まったくだ。生きるって事は他者をその分、蔑ろにするって事だろう? それを理解しない奴なんて、ヘドが出る」
は――――自らを
「さて。では、そんな君に問いたい。猟犬の名を持つ君は、狩りを不得手とする他の人格たちの代わりに、ウサギを仕留めるのが仕事だ。君の脚はすばやく、他の誰よりも鋭い牙を持つだろう。だが、君が本当に狩りたいのはウサギかな? 狡猾なキツネが目の前を歩いていても、猟師は君の首輪を掴んで離さない。その事に不満は?」
猟犬は目を細め、槙島の顔を見据えた。槙島が何を答えさせようとしているのか、十分理解している。だが、それは口にしてはならない事だと、彼もまた躾けられている。
「あったとしてもどうしようもない」
猟犬は肩をすくめた。
「俺は猟犬で、狂犬じゃない。ご主人様のお許しがなきゃ、自由に出歩くなんて以ての外だ」
今もまた、彼は赦されてここに居るのだ。
眼下に横たわるウサギを、食い殺せと命令された。だからこうして飛び出し、そのはらわたを屠る。
だが、槙島がこの場に居合わせた事は、どうやらご主人様の意図ではないらしかった。
「もし、僕が君の首輪を外してやれるとしたら……どうするかな?」
「……なんだと?」
猟犬は槙島を睨みつけるように見た。
罠か。何が目的だ、と槙島の意図を探るように、その微笑を浮かべた白い顔を見据える。猟犬の警戒を感じ、槙島は両腕を広げた。まるで丸腰だとでも言うように、猟銃もナイフも持たないその懐を露わにする。
「何のつもりだ?」
「彼女たちは合理的だが、少しばかり信仰に酔っているところがあるからね。それを教えてやりたい。誰かの信じる正義とは、別の誰かにとって必ずしも正義になり得ないという事を」
猟犬は何も答えなかった。獣のような険しい瞳は、ただ槙島の本性を暴こうとするように向けられている。
「代わりにお前は何を望む? 現実を突きつけたって、あの狂信者たちの目は覚めないぜ?」
槙島はにんまりと唇に笑みを浮かべた。こちらの要求を尋ねたという事は、取引への興味は十分にあるという事だ。
槙島は微笑む。ユダを唆す祭司長の顔で。
「僕が欲しいと望むのはただ一つだよ」
Black Mare15
マンションの明かりはすべて落ちていた。槙島の生体を感知しながら照明を灯さないシステムに訝しんでいると、薄暗い部屋の中から少女の声が響いた。
「お前……やってくれたなあ」
窓を背にソファに座って足を組むは、月光を浴びて青白い顔をしていた。
「やあ、君の方から訪ねてくるだなんて、何かいいことでもあったかな?」
おどけたような口ぶりで尋ねると、惚けるな、との厳しい声音が響いた。
「犬が逃げた。お前が手引きしたんだろ?」
槙島は無言だったが、その表情に笑みが浮かんだ。短時間でここにたどり着くとは、予想がつく事とは言え、嬉しく思った。
「彼は君たちほどという集合体を、大切に思っていなかったよ。むしろ己が個として確立する方が重要だった」
「そんな事は知っている。だから首輪がついてたんだ。あいつは考えが短絡的なんだ、僕たちがこの個体から抜け出して生きていけるはずなどないのに」
「それはどうしてかな?」
槙島はの正面に座り、同じように脚を組んだ。
「第一にあいつには生きる知恵がない。どうせすぐに潜在犯として公安の手に落ちる。第二に仮初めの身体なんて偽物だ。僕達の本物はこの身体以外にあり得ない。あいつだってすぐにそれに気づく。僕らの肉体を離れ、生きることなんて出来ない事を」
なるほど、と槙島は胸中で呟く。これでは猟犬は、彼女たちを狂信者といわざるを得ない。同じ固体を有する者であっても、誰も猟犬の孤独を理解しようとしなかったのだ。
「そうだとしても仕方がなかったんじゃないかな。君たちは彼のために、その体をあけ渡すことはなかっただろう」
「当たり前だ。僕たちは共同体で、あいつだけがなんじゃない」
「その思い込みが、君の敗因だと気づかないかね……?」
「なんだと?」
の瞳に剣呑な色が浮かんだ。
「おそらく、ドクはそれを理解してるんじゃないかな。彼女は君よりも何倍もリアリストだよ。だから今もこうして君に代弁させているし、自ら出てくる事はない。おそらく猟犬の一件も折り込み済みだ。きっともう、新しい猟犬を探しているだろう」
はうろたえた。他人である槙島に、自分の中の人格を知ったように語られたのに驚いたのだ。
「何を言ってるんだ……? それは僕が代理人だから、」
「そう、この場は君の方が話をしやすいと思っている。だから君に任された。だが、それは代理人という役割ではなく、あくまで君が僕のだからだ。他の人格が相手なら、僕がこういう無駄話を嫌がるかもしれないとドクは考えた」
「お前……何を言ってるんだ?」
「ドクも考えている事だよ。知っていながらわざわざ君を表に立たせたのは、せめて文句の一つでも言ってやろうという意向かな。まあ、君のいう事になら僕は耳を傾けるからね」
僕は君の事を気に入っているからね――――、槙島はにっこりと微笑んでゆっくりと立ち上がる。の前まで歩を進め、の隠し切れない動揺を覗き込むようにその両眼に自分の顔を映す。
黒ダイヤのように澄んだ双眸。まるで彼女のサイコパスを映したかのような、深く澄んだ黒に槙島は恍惚の表情を浮かべる。
誰よりも深い闇色をしているのに、どこまでも澄んで純粋なその色を槙島は愛している。だからこそこの色が失われてしまう事を厭う。が自分の価値を無碍にする事を嫌う。
「もし君がこの場を上手く収められなければ、君も処分の対象になるのだろうか。そして別の代理人がその任に就く? 君はそれでもいいのかな?」
は戸惑いと共に槙島の顔を見上げる。そして、
「……もしその方が皆のためになるなら、僕はそれで構わない」
戸惑いの中に強い意志を灯り、じっと槙島を睥睨する。
槙島はくすりと笑みを零した。
「模範的な回答だね。だが僕は、それは嫌だ」
呟いた瞬間、槙島の伸ばした手の平がの白い喉元を優しく包み込むように掴んだ。
end
猟犬の逃亡。