Black Mare11.75
「冗談を言うな」
は溜息と共に呟いた。
誰もいない学生寮の私室。桜霜学園の学生寮は二人部屋が常だが、他人が私室にいると色々と邪魔になるので少しばかり細工をして、は一人部屋を使っている。
二人部屋と同じ内装だが面積はその半分、かつてウサギ小屋と言われていた日本の集合住宅の一室のような部屋だ。
部屋は狭いがそこらじゅうに物が溢れている。一人で使うには多すぎるカップやら、誰かの集めているコレクションやら、貸し出し期間をすぎた図書館の紙の本やら――――個々には意味があるが、他の人格からはよく分からないもので部屋中が埋め尽くされている。
その中で唯一綺麗にしている学習机に座り、は独り“会話”を続ける。
「お前は他人事だから気軽に言えるんだよ。男に好かれるなんて考えてみろよ? あいにく僕は……だから、男じゃないから女だって事にはならないだろ? 確かに言ったよ、本心だからな。でも、あいつがあんな風に解釈するだなんて……」
そこで言葉を止めて、はしばし沈黙の後、はぁっと深く溜息をついた。
は今まで性別というものを深く考えた事はない。の身体は女性だが、自分がこの身体と完全にマッチしているとは思っていなかった。
現に猟犬を初め何人かの交代人格は男性だし、身体と別の性別の人格が宿る事があるのなら自分のようにニュートラルな者がいてもいいだろうと自身を肯定していた。
セックスの相手は魅力的なら女でも男でも良いと思っていた。これは本心だし、バイセクシャルである事と自身の性別は繋げて考えた事がなかった。
それが槙島のあのはた迷惑な告白から、は余計な悩みを抱えてしまったのだ。
男に好かれる。それ自体は未経験ではない。
だが、あんな風にとびきりの美人に、愛を囁かれたのは初めてだ。
はっきり言って、どうしていいのか分からなかった。自分に魅力を感じて好きになってくれたのなら、相手が男だって女だって嬉しいはずなのに、槙島の場合はなぜか素直に受け入れられなかった。
「なんか、なんかさ。僕もよく分からないけど、あいつ、女の子みたいに扱うんだよ。いや、他の奴だってそうだったけど……だって、あいつは知ってるじゃないか」
そう。知っていて――――が“僕”と自分を呼ぶ事を知っていて、槙島はに愛を囁いた。
それが初めてで、驚いて、どうしたらいいのか分からなくなってしまった。
の殻を見て、近づいて来た者になら如何様にも対応の仕様があった。今までもそうだった。女でも、男でも、普通の女の子を偽って恋愛を楽しんでいられた。
だけど、甲殻を失った“僕”に、そんな感情を向けて来た人間は初めてで。
どうしていいのか分からなくなる。
「だっておかしいよ。僕は色相真っ黒で、多重人格で、男か女かよく分からない奴なんだぞ? 顔も名前も共有物だしさ、何者か全然わかんない。得体が知れなさすぎだろ。それを普通好きになるか? 透明人間に恋とか出来るものなのか?」
一気にまくし立てた後、は他の人格たちの声を幻聴のように聞く。その声は主に否定的だ。
透明人間だって心はあるでしょうとか、人を好いたり嫌ったりするのなんてサイコパスがあれば十分だとか、どうでもいいからさっさと腹をくくれとか――――
「真面目に考えろよ! 場合によっちゃ貞操の危機だぞ!」
声を荒げた瞬間、ふっとの意識は身体の奥底へと引き戻された。
「はっ、危機だぁ? 突っ込まれるだけで安全が手に入るんなら安いもんじゃねぇか。喜んでケツ振ってやれよ、なァ?」
「お前っ!」
勝手に表に出てきた猟犬を引きずり戻し、主導権を手に入れた瞬間、再びは身体を奪われた。
子供を叱る母のような顔で、
「そういう言い方はおやめなさい」
と、ドクが猟犬を嗜める。
「確かに性行為は取引材料になるでしょうけど、身体は共有物なのよ。身体は大切に扱ってもらいなさい」
「いや、そーだけど! お前らもっと他の所から問題視しろよ!」
すぐさまは身体を取り戻し、ズレた小言を口にするドクへ突っ込みを入れた。
まったくこいつらと来たら、他人事だからそんな悠長な事を言っていられるのだ。もし自分が槙島にロックオンされていたら、それでも同じ事を言えるのか。
そう文句を返すと二人同時に、
「可能だわ」
「問題ない」
とあっさりと返答した。
まったく本当に嫌になる。
「だいたい、てめぇは何をうだうだ考えてんだ? 殺されるわけでもあるまいし、そんなに悩む事か?」
「いや、だってさぁ……」
は深い溜息を漏らし、机の上に突っ伏した。ひんやりと冷たい木製――――ホログラムだが――――の板の上に、頬を充てあの色相も笑顔も屈託のない男のことを思い出す。
「こんな事、初めてじゃないか。僕を見る人間だなんて」
いつでも自分たちはで、自分はの一部に過ぎなかった。他人にはその境界は把握できない。なのに、のピースの一つを、槙島は迷い無く掬い上げた。
その事に戸惑う。いつでも境界は自分たちと世界だけだったのに、今は自分たちの中にまで境界が生まれてしまった。槙島がを選んだから。
シビュラシステムはをこの世界で独りぼっちにさせた。神の神託がそれを決めたのなら、他人なんて要るかと、は自分の中に外とは異なる世界を創り上げた。
亡霊たちの住まう想像の世界。実体がないと分かっていても、それは彼女を慰める大切な存在だった。
だから、他人なんて要らないし、孤独を恐れる必要はない。そもそも世界が違うのだから、互いに異世界の住人など亡霊と同じなのだ。
なのに、亡霊に興味を抱き、手を触れようとして来た人間が現れた。今までそういう輩はみんな始末して来たのに、今回は始末できなかった。
がの虚像を保てる距離をそのまま保ってくれればいいのに、奴はどんどん足を踏み入れて、警告してもそれをすり抜け入り込もうとする。の手を掴もうとする。
「ああ。もうイヤだ」
はかつんと額を机の上にあてると、目を閉じた。
確かに悩むような事じゃない。優先すべきはの安全。取引が通じるのなら、槙島聖護を敵かどうか分からない存在にしておくより、遥かに安全な選択。が失うものは、ない。
だが――――
「ああ……、憂鬱だ」
はもう一度がつんと額をあてると、今ばかりは多重人格と言えど個々の自我があることに感謝した。
こんな思考なんて、他の誰にも読まれたくない。
end
ヒロインサイドの補足回。
いいかげんヒロインの名前がゲシュタルト崩壊しそうです。
=集合体、・代理人=ヒロインの区別のつもり。