Black Mare11.5
目が滑る。
何度も自分の目がその文字を捉えているにも関わらず、まったく頭に入ってこないのは、それを阻害する何かがあるから。
なんだろう、視線を紙面に放ったまま考える。
僕の読書を邪魔するのは何者だろう、考える。
考えているのに、ふと脳裏に、そういえばあの娘は今頃何をしているだろうと、まったく関係のない思考が浮かぶ。いつもしかめっ面をする彼女。不遜で、生意気で、世の中の事を何も分かっちゃいないくせにまるでそれを解さない、愚者のカードのような彼女。
ああ、僕はあの娘のことが好きなのか――――
自覚していなかった感情に思い当たり、槙島は驚くと共に喜んだ。
最初から面白い人間だとは思っていたけれど、こんな風に自分を楽しませてくれるなんて予想外だ。
人を好きになるなんて久しぶりすぎて心が躍った。
どんな風に想いを伝えよう、どんな風に愛を語ろう、どんな風に抱きしめて、どんな風に壊そう。それを想うだけで、わくわくする。
「楽しそうですね?」
思わず笑みが零れていたのか、チェ・グソンが怪訝な顔で尋ねた。
「いや、ね。僕は彼女の事が好きなんだなと思って」
「彼女?」
チェ・グソンは疑問を口にすると共に、脳裏に黒髪の少女の顔を思い浮かべた。チェ・グソンにとっては未知の生物で、いつ噛み付いてくるかよく分からない準危険人物である。
「それは面白い志向ですねぇ。でも、簡単に玩具になってくれる女じゃないでしょう?」
チェ・グソンはを悪魔のようにすら感じている。
実際の歳はよく分からないが、あんな小娘にクラッキングで出し抜かれたことは、チェ・グソンのプライドを十分に傷つけた。
それだけではない。あの娘は槙島の放ったキツネをいとも簡単に追い詰め、拷問し、証拠の残らない形で処分した。誰の手も借りず、それをたった一人でやってのけた。いくらその身の中にいくつもの交代人格を宿しているといえ、それは十分に脅威に値する。
数多くの潜在犯と出会い、関わってきたが、こんなたちの悪いな潜在犯は初めてだ。
だが、おそらく――――槙島がを気に入った理由に、それは含まれないのだろう。
「懐柔策は考えてあるよ。少なくとも僕を敵に回すより得と考える人格はいるはずだ」
「脅迫めいてますね」
チェ・グソンは笑みを零しつつ、それほどまでに興味を抱く理由はなんだろうと考えた。
単純にもの珍しいから。それもある。だが、それだけならただの玩具でいいはずだ。わざわざ取引をしてまで身近に置く理由が思いつかない。
それに――――に興味があるのではない。槙島の関心はあくまで、その中の一人格に向けられている。
不思議に思って尋ねると、槙島はいつもの不敵な笑みを返した。
「なぜ彼女なのだろうね。僕もずっと考えているけれど。強いて言うなら彼女の色相が一番闇に近い色をしているからだろうか」
以前、人格ごとのサイコパスを密かに計測した事があった。多少のぶれはあるものの、一人格を除いてほぼ全員が潜在犯だった。そして、その中でも最も深い色を宿した者――――それが他の人格よりも多くの時間身体を支配し、外の世界と交渉をする役というのが驚いた。
シビュラに決して認められない存在。在ること自体が禁忌。
それがまるで我が物顔で往来を歩き、偽り、世界と対面している。
何者にもまつろわぬ強さ、気高さ。傲慢、不遜にも似た強固な意志。そして何より――――
「彼女は孤独だ」
チェ・グソンは少しだけ驚いた顔をした。
「多くの人格によって構成されていても、は一人なんだよ。多くの人間があの身体に宿っているわけじゃない。切り離された人格たちが、まるで別の何者かのように形を作っているだけで……」
ふと、チェ・グソンの脳裏に鏡の前に座る、の背中が思い浮かんだ。
ああ……、と呻くように相槌を打った。自分たちは鏡像に過ぎないのだと、自覚がないはずがない。彼女たちは他者を必要としないほど、賢いのだから。
完成された人格たち。
個々の能力を用い、何でも出来てしまう彼女たちは、完成されているが故に他者の介入を許さない。
他人を必要としない。他人に明かす事が出来ない。いつでも自分しかいない。他者のように見える彼らも、本当は脳が見せる亡霊で――――
「孤独だ」
槙島は鏡の前で立ち尽くす少女を皮肉るように、そう繰り返した。
「どんな風に思ってるんですかね、自分たちのことを」
知りながらも自覚のない振りをしているのか、諦めているのか、はたまた思考を止めているのか。
「代理人の彼女でしたら、だからどうした、と怒った顔で開き直りそうですね」
「確かに」
ふふっと槙島は笑みを零した。
『お前に言われなくたってそんな事は百も承知だ。だが、だから何だって言うんだ。亡霊だって、偽者だって、僕はそれで救われてる。僕たちはそうして生きている。お前に口出しされるような事じゃない』
そんな風に目を吊り上げて、怒ったように言うのだろうか。
その言葉を聞き、表情を見るためだけに、その質問を投げかけてもいいと槙島は思った。瞬きと共にころころと変わる表情の中で、あの子供っぽく怒った顔は槙島のお気に入りだ。
見ていて飽きない。まるで癇癪玉を破裂させるみたいに、ついつい楽しくて構いたくなってしまう。
「しかしこっちは驚きですよ。槙島の旦那が普通に人を好きになるなんて」
冗談半分、本音半分と言うところか。槙島は心外だな、と返しつつも顔は笑っている。実は本人も意外だったのかもしれない。
「あのお嬢さんに迫ったのだって、半分は遊びみたいなもんなんでしょ? どんな反応をするか見てみたい。そんな顔してましたよ」
告白の場面をチェ・グソンにカメラから盗み見されていたにも関わらず、怒るどころか笑っている。きっとこの顔は本心なんだろうな、とグソンは思う。
「嘘はついていないよ」
「そうでしょうとも」
だがきっと一般的に相手がああいった状況で受け取る好意とは、どこか違うものを抱いていたに違いない。
彼女の強さや弱さを愛するが故に、試してみたくなった。その強さや弱さは本当に彼女の本質なのか。自分が関わる事で彼女は変わってしまうのか。彼女の美しさも曇ってしまう事があるのか。
試してみたくなった。
今も槙島は彼女を試し続けている。それが悪い事だとも思っていない。それは決して不誠実な事ではなく、彼女への愛情を損なうものではないからだ。
ただ、認識が変わったというならば、彼女は槙島の想像以上に楽しめる存在だという事だった。
結論から言えば、槙島はまだを変える事が出来てない。それが嬉しくて、楽しくて、どんどん彼女に惹かれていく。前よりも好きになって、もっと色々な方法で彼女の本質に触れたいと心が叫ぶ。
「グソン、これはきっと愛だよ」
くつくつと槙島は喉を鳴らして笑った。
end
槙島の心理描写が少ない気がしたので、後だしですが補足回。
時系列的には、4話の告白後です。
愛しているかどうかと言われれば肯定するけど、
それが一般的な愛情と同じとは限らない、と言う話。
彼なりの愛です(笑)