Text

“わたしは、赤い獣にまたがっている一人の女を見た。
この獣は、全身至るところ神を冒涜する数々の名で覆われており、七つの頭と十本の角があった。
女は紫と赤の衣の衣を着て、金と宝石と真珠で身を飾り、忌まわしいものや、自分のみだらな行為の汚れで満ちた金の杯を持っていた。
その額には、秘められた意味の名が記されていたが、
それは、「大バビロン、みだらな女たちや、地上の忌まわしい者たちの母」という名である”

─新共同訳、ヨハネの黙示録─




Black Mare08





 美術室のドアを開くのと同時に、耳に届いた鼻唄に槙島はおやと眉を上げた。
 は上機嫌で、キャンバスに筆を走らせている。制服の袖が汚れる事も厭わず、何本もの筆を手に、交互にそれを使い分けている。
「ご機嫌だね」
 槙島の問いには答えなかった。
 大きなキャンバスに遮られ顔は見えない。ただ、の奏でる唄だけが耳に届く。
 有名な歌だ。誰もが誕生日の度に口ずさむ、あの曲。それを延々と繰り返している。
「誰を祝っているのかな?」
 槙島の問いにはやはり答えなかった。
 怪訝に思いキャンバスを覗き込むと、の筆先は赤い皮膚の獣を描いていた。七つの頭と十の角を持ち、その頭上には王冠を戴く。その上に杯を手にした女が腰掛けている。
 禍々しい姿だ。豊満な肉体を持っているにも関わらず、顔は青白く、死神のように眼窩が窪んでいる。
「大淫婦バビロン」
 黙示録に記される悪しき者の名を、槙島は口にしていた。はくすくすと笑みを零しながら、女の骨の輪郭を撫でるように彩った。
「僕たちはマザーハーロットの悪しき獣だ。全身は神を冒涜する数々の名で埋め尽くされている」
 は鼻唄を口ずさみながら、不気味に微笑む。
「なあ、あんたの名前。聖きを護ると書くのに、どうしてこんな事を? 僕にはさっぱり理解できない」
 ふふ、うふふ、うふふふふふ――――
 槙島はじっとのガラス球のような瞳を見つめる。
「記号に意味はない。少なくとも初対面の君に語るつもりはない」
 ふふっ、ふふふ、ふふ――――
 ――――の中にいるその人物は、なぁんだ、と子供のように間延びした声を上げた。
「バレちゃうんだな、簡単に。顔も身体も一緒なのに。まぁ、いいや。俺が何者だってあんたは構わないんだろ?」
 は笑みを浮かべながら、大小様々な筆を手にしたそれを槙島に向けた。槙島はわずかに警戒を向ける。凶器と呼ぶには鋭利さに欠けるが、力と勢いがつけばどんなものでも人を殺す事は出来る。
「なあ、誰も居なくて暇なんだ。この身体が埋まるまで――――遊んでくれよ?」
 の中の誰かがにやっと唇を歪ませて笑んだその瞬間、槙島の足はの腹部をしたたかに蹴り飛ばしていた。衝撃を受けての身体が跳ね飛ばされる瞬間、槙島はすばやく身を翻し、学園の地下に隠された地下道へと急いだ。
 人気のいない時間帯と言っても、さすがに校舎の中で乱闘を起こすわけにもいかない。ましてや、分別を持つドクや代理人のが不在とあっては、このまま放置するのは危険である。
 はまるで獲物を追い詰めるような足取りで、ゆっくりと槙島の後を追ってきた。
 深く、静まり返った地下道の中に、の笑い声と足音だけが響く。
「なあ、槙島聖護。待てよ。遊ぼうぜ? 俺はあんたに興味があるんだ。あんただって俺のこと知りたいだろ?」
「あいにく君は好みじゃない。なまじと似ているせいで、見ていてとても不愉快だ」
 暗闇から響く槙島の声。は喉を震わせると、代理人を装うために纏っていたわずかな品をかなぐり捨て、狂人のように笑った。
「ひゃはっ、似てる? なぁに言ってんだか。てめぇの目の前にいる俺が、てめぇの大好きな大好きなちゃんだよ」
 見てみろよ――――
 の片手が、乱暴に制服の前を引きちぎった。勢いに任せボタンが弾け、白いワイシャツの中が露わになる。
 の、少女の白い肌が薄暗い暗闇の中に浮かび上がった。
「見ろよ、てめぇの大好きな女子高生のハダカだぜ? 出て来いよ、ロリコン野朗。今なら言い値で抱かれてやってもいい。そのあと十倍酷い方法で抱いてやるけどな」
 きゃはっ、ひゃひゃ、ひゃはははは――――
 狂人の哄笑が深い闇の中に響く。
 と同じ声帯を震わせて発せられる声だと言うのに、それはまったく別人のものに聞こえる。槙島の脳裏はすでに目の前の下品な獣を、とは別の存在として切り捨てていた。
 撃ち捨てられた鉄のパイプを拾い上げ、からからと鳴らしながらさ迷う姿は、さながらB級ゾンビ映画の化け物のようだ。
「醜いな。見るに耐えない」
 物陰から姿を現した槙島は、の悪霊に取り付かれたような姿に溜息を漏らした。
 はくくっと喉の奥で笑うと、槙島に向けて突進し、大きく鉄パイプを振りかぶった。寸ででよけられた鉄パイプが、壁に弾かれ甲高い音を上げる。
「なぁっ、てめぇの目的はなんだ? なんでこんな事してるんだよっ?」
 はぶんぶんと先の曲がったそれを振り回しながら、槙島に向かって声を張り上げた。
「殺人狂ってわけでもねぇ、金が目当てなわけでもねぇ。手に入るのに欲しがらない、力があるのに求めない。ふざけてんのか? サイコーに気に入らねぇなぁ! 要らないなら俺に寄越せっ! 俺には……顔も! 名前も! 身体もないのにっ!」
 の振り上げた鉄パイプが、槙島の目の前を掠め、地下道を巡る排気管にぶつかった。弾かれた瞬間、槙島の蹴りがの足を払いのけた。
 バランスを崩したが立ち上がろうとした瞬間、槙島の開いた剃刀の刃がの喉元に突きつけられていた。
 は血走った目で槙島を睨みつけると、迷うことなく剃刀の刃に手を伸ばした。がそれを握り締めようとしている事に気付き、槙島はすぐさま剃刀を引いたが、鋭利な刃はの手の平を傷つけ勢い良く鮮血が飛び散った。
「なんでだよ。なんでなんだよ? 理解できるか! クソッタレが」
 は視線を反らさずに、槙島を凝視する。
 その瞳には得も言えぬ憎しみが込められている。槙島個人ではなく、自分以外のすべてに向けられた怒りと憎しみが。
「なあ、なんで俺はこんな不便な身体に生まれたんだ? なんで俺は一人じゃないんだ? 俺はこんなのは嫌なんだ。俺は俺としてただ生きたいのに……俺の頭の中の五月蝿い女どもが、俺を……埋め尽くそうとする」
 は糸の切れた人形のように力を失うと、その場に両膝を落とした。
 カラン、と鉄パイプが音を立て、地面を転がる。そして、いやだ、いやだと呟きながら、縮こまるように両手で自分の肩を抱きしめた。
 涙を堪えたような瞳が、熱に溶けて緩んでいた。
「くそっ……俺はただ……、なんで生きちゃいけないんだ……何も、なにも悪い事、してないのに……畜生、やだやだ……嫌だ、ああ……」
 タスケテ――――
 の唇がその言葉を象った瞬間、まるで手負いの獣のような俊敏さでの身体が槙島に飛び掛った。尖った犬歯が獣さながらの獰猛さで槙島の腕に食い込む。 槙島の白い皮膚を食い破り、鋭利な牙が肉に届き、赤い鮮血がぽたぽたと零れ落ちた。
 槙島はわずかに眉を寄せると、鋭い手刀をの首の裏に打ち込んだ。




end


“俺”を騙る別の交代人格。