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Black Mare05





 揺りかご。産声。試験管。赤ん坊の頭部。臍の緒。赤。女の乳房。血まみれの下半身。赤。赤。赤。赤――――

 ずっと昔に絵を描かされた。
 カウンセリングの一環だったらしい。深層心理というのを絵の中から読み解くのだと言う。
 どうでもいいが、思いのままに絵を描くと、白衣の大人たちは眉根をひそめた。
 やはり色相が、濁って、精神面で、人格が――――
 断片的に耳に届いたそれに心を動かす事はなかったが、ただ退屈で、鬱陶しくて仕方がなかった。
 この絵に一体なんの意味が?
 偉そうな銀縁眼鏡をかけた医者が、母性あるいは性に対しての恐怖心だと言う。だから男を騙るのだと。
 女に対して多少なりとも嫌悪感があるのは事実。化粧の匂いも、香水も、甲高い声も好きじゃない。だが、同じくらいオッサンのだみ声も、タバコのにおいも、神経質そうな貧乏揺すりも好きじゃないんだ。
 そう言ってやったら、医者は顔を真っ赤にして他の奴らと同じような悪態をついた。
 だからお前は色相が真っ黒なのだと、生まれながらの悪魔、人じゃない、お前のような人間は生きている意味がない――――
 笑わせてくれる。この機械に支配された近代社会で悪魔だって? シビュラではなく神でも信じているのか。だいたい生きるか死ぬかを決めるのはシビュラだ。今ここにこうして存在を許されているのならば、どんなにイレギュラーな存在であろうと、生殺与奪の権利はここの偉そうな医者たちにはないのだ。
 人のことをモルモットにしているくせに、えらそうな事を言ってくれる。
 わざわざ自分のために先天的色相障害などという、それっぽい名前を生み出しておきながら、結局未知のものへの畏怖を鬼やら悪魔やらという非科学的な言葉で表現するなんて。そのくせ、悪魔の名前もろくに答えられない。
「先生。僕が悪魔というのなら、僕は一体なんの悪魔?」
 研究室を抜け出す日、男を始末する前に聞いてみた。
 実は少しだけ興味があったのだ。果たして自分は何者なのか、戯言でもそれを聞いてみたいと、まるで占いか何かのようにわくわくしていた。
「女の悪魔なら古今東西たくさんいる。アダムの最初の妻リリスか、その娘リリムか。東洋においては濡女、山姥、赤子と繋げるのなら産女でもいい。怪物の母エキドナ、堕落の女マザーハーロット、カーリー、ラクシャーサ、スキュラ、キマイラ、白娘子、清姫……」
 さあ、僕は何者だ――――
 少しだけわくわくしていたのに、男の回答はものすごくつまらなかった。
「お前は……お前は……、生まれてくるべきじゃなかった……お前は……」
 なんだ、と落胆した。せめて命乞い代わりに出任せでも悪魔の名を口にすれば、もしかしたら気が変わったかも知れないのに。
 名前のない悪魔など、本物の恐怖じゃない。ただぼんやりした影を、勝手に幽霊と思い込み怖がっているような。恐怖症だ。
「詰まらないの」
 落胆の言葉を呟き、は意識を別人格へと譲った。ここの処理はドクの方がうまくやる。自分はしばし眠りに付いて、これからの事でも考えようか――――
 それがの研究室での最後の記憶。





「何かはあるのだろうね」
 と、思慮深げに填島は呟いた。そりゃ何かはあるだろうよ、とは不機嫌そうな顔で呟いた。
 いつもの美術室。この男は顧問という肩書きをいい事に、いつもこの部屋に入り浸りだ。王陵璃華子は自分の作品に夢中なのか、今は部屋にいない。璃華子の前で猫をかぶらなくていい分、こいつは言いたい放題で相手をするのが面倒だと、はぼんやりと思った。
「同属嫌悪、自己の否定、性への恐怖、母性への反抗。プロファイリングのプロたちが言うにはそういうものらしい」
 だから自分は男を偽るのだと、そう言われた。
 余計なお世話だ、とは悪態をつく。偽ろうが偽らざろうが、それはの問題で他の誰かに口を出される事ではない。
「僕が自分を“僕”と呼ぶならそれで終わりだ。外野がごちゃごちゃいう事じゃないよ」
 もっともである。だが、モルモットを観測する側には興味深い問題だったのだろう。結局彼らは、モルモットに噛み付かれて死んでしまったわけだが。
「彼らも君の事が知りたかったのだよ。それじゃ駄目かな?」
 填島が唇に笑みを浮かべて尋ねる。は首を横に振った。
「駄目だね。誰に断りを入れて、僕を知る権利が? そういう事をするから死ぬハメになるんだよ」
 は苛立ちながらキャンバスの上に筆を走らせる。
 黒い法衣を纏ったマリアの絵。顔が煤けた色のため南欧に見られるブラックマリア像を連想させたが、はそれを意識したようではなかった。血色の悪い頬に、は血の涙を走らせている。
「君にとって血というのは……女性を象徴するものなのかな?」
 填島の問いかけに、の筆がぴたりと止まった。
 明らかに不機嫌そうな視線を寄越すが、填島は構わず続ける。
「東西に関わらず古く女性が神事に携われないのは、その穢れゆえと言われている。月ごとに血を流す女性は不浄のものとされた」
 は何も言わなかったが、だから何だと言いたげな剣呑な表情である。
「今ならば時代錯誤な悪しき風習と言わざるを得ない。だが、良し悪しは別として性と言うものが、様々なモチーフに繋ぎ合わせて考えてこられたのは事実だよ」
 曰く、月や銀、水、陰。
「そんなものは、二元論に男女の性を当て嵌めただけじゃないか。女が月なら、男が太陽とでもいいたいんだろ? 血液型占いより非科学的だな。だいたい女が血なら男はなんだ? 水銀か、王水か?」
 くだらないよ、そんな事。はそう言い放ち、填島の戯言を切り捨てたつもりだった。
 だが、填島は獲物をいたぶる猫のような顔をする。
「さぞかし恐ろしく、腹立たしかっただろうね。初潮を迎えた時は」
「……やめろ」
「君が女性に対し、恐怖とも嫌悪とも付かない感情を抱いている事は事実だ。だから君は“僕”を騙る」
「填島。頼むからやめてくれ」
「君は自分が男なのか女なのかわからないと言った。精神上、それは正しいのだろう。だが、君の身体は間違いなく女性だ。は女性だよ」
「やめてくれ……。やめてくれ」
「君は打ち消したかった。男も女も君は嫌いだ。どちらにもなりたくない。永遠の少年少女、性を持たないピーターパンになってしまったから」
 だから、君は――――
 その瞬間、は椅子を蹴り上げるように立ち上がると、迷わず填島の喉元に油絵用のヘラを突きつけていた。尖った先端を槙島の首筋に押し付け、は静かに、低く、呟く。
「やめてくれ。僕を暴こうとするな」




end


ちょっとシリアス回。