Black Mare03
解離性同一性障害の色相研究は、過去何年にも渡り研究が続けられてきたが、未だ明確な結果を残せては居ない。
いわゆる多重人格者と呼ばれる彼らは、幾重もの色相をその脳裏に持つ。つい先ほどまで透明だった色相が、途端に濁った色に変わってしまうなど、サイコパスが一貫しない。
自他共に把握しにくい彼らを、シビュラシステムはカウンセリング対象として病院に収容した。悪とは言わない。だが、シビュラは一つの肉体に、複数の色相を持つことを許容しない。研究所で行われるのは、人格統合の強要だ。
正しき一人に、健全な色に、教義の一つであるかのように繰り返す。
「酷い話だろ? そんなところに放り込まれて、一体誰が“改善”するんだ。体のいい収容所だよ」
代理人は吐き捨てるように言い放つ。
「だが、シビュラに見つかれば収容所行きは逃れられない。君はそれをどうやって回避したんだ?」
仮に人格たちの色相に問題がなかったとしても、解離性同一性障害であるという事はすでにシビュラの禁忌に触れている。シビュラシステムは例外を赦さないのだ。
代理人は制服の胸元を広げると、襟の下に下げたネックレスを槙島に見せた。
「こいつのおかげかな?」
銀色のチェーンの先に、紅い電工色が輝いている。
「それがリミッターかい? 我々もそれに似たものの製造を試みた事があるが、僕らの試作品に比べるとずいぶん小型だ」
その言葉を受けて、代理人は得意げな顔をした。
「僕らの中に飛び切りの天才がいるからね。僕らはドクと呼んでるけれど、そいつがこれを作ってくれたんだ。それまでは色相チェックのたびに、その係りが表に出てこなくちゃいけなかった。いつもその子が表に出ていられればいいんだけど、あいにくその子はまだ五歳なんだ」
ふむ、と槙島は興味深げに頷いた。
今の会話の中だけで、すでに三人の人格の存在が確認できた。
今、槙島と会話をしている代理人。小型リミッターを作った天才のドク。色相チェックの係りである五歳の子供。
他にもきっと語られていない人格がいるのだろう。そしてその中に、主人格であったもいるはずだった。
「リミッターの存在に気づいたのは先生が初めてだよ。お前、何者だ? ただの美術教師がそんな事知ってるはずがないと思うんだけど」
探るような代理人の視線を受け、槙島は唇に笑みを浮かべる。
「僕に興味があるかい?」
質問を質問で返す、挑発的な言葉。代理人は目を細めると、べつに、と首を横に振った。
「さっきも言ったけれど、僕たちは別に犯罪を犯そうとしてるわけじゃないんだ。ただ普通に暮らしたいんだよ。だから、お前が何者だって構わないし、どうだっていい。ただ、僕たちの邪魔をするな。それだけなんだ」
「そうかい。だが、僕は逆に君に興味が沸いたよ」
代理人の双眸に剣呑な光が宿るのを槙島は感じ取った。
おそらく目の前の人物は、どうやって実力行使に出るか頭の中で計算中だ。
誰も居ない夕暮れの教室。殺傷力のありそうな物は見当たらないが、最悪どんな物でもやろうとすれば人は殺せる。
「なあ、先生」
代理人は声を低めて槙島を呼んだ。
「困らせないでくれよ。僕はとりわけ好きでも嫌いでもない奴を始末して、面倒を起こしたくないんだ。お前が僕らの仇とでも言うなら喜んで殺してやるんだが、あいにくそうじゃない。どうだっていいんだ、僕らは。だから頼むよ」
代理人の物言いに槙島は思わず笑みを零した。
なんという懇願だろう。こんな物騒で自分勝手なお願いなど耳にしたのは初めてである。
だが、代理人は一つ勘違いをしている。
「僕はべつに君をシビュラに引き渡したりしないよ」
槙島の言葉を受け、代理人はますます顔を険しくさせた。
「はあ?」
「君が僕に興味がないように、僕も君が病院に“連行”された後のことに興味がなくてね。君が無理やり統合されても、されなくても、どちらでも構わない」
「……つまり、黙っていてくれると?」
「そう受け取ってもらって構わない」
代理人はしばし理解不能といった顔で、槙島の顔を見ていた。確かにそうであれば代理人の願い通りなのだが、こうも簡単に引き下がられると逆に不気味さを感じる。
「お前の目的は?」
代償が要るのか。
だが、その問いにも槙島はかぶりを振った。
「なにも。強いているなら、君の人生を僕に見せて欲しい。それが君たちの事を他言しない対価だ」
代理人は――――しばし無言で槙島を見つめていた。だが、その間に急に瞬きが増えた事に、彼は気づく。
入れ替わっているのだろう。彼女の心の中に住む住人たちと、槙島の要求を信じるべきか否か協議しているのだ。
やがて、彼女は代理人に戻ると、わかった、と短く答えた。
「契約成立だ」
「それは良かった。改めてよろしく」
差し出された槙島の手の平を、代理人は困惑した表情で見つめ、やがて恐る恐るといった風に握った。
「僕が言うのもなんだが、お前変な奴だ」
「よく言われるよ」
「それに、どうして聞かないんだ? はどこにいる、って」
代理人と槙島の会話の中で、一度も本人は出てきていない。それを不審に思わないのか代理人は尋ねたが、槙島は笑みを浮かべるだけだった。
「その質問に意味がないからだよ。交渉中の印象で、君がその固体の主導権を握っている事は理解した。なら君がだ」
代理人は顔をしかめた。やっぱり変な奴、と呟いて、
「ひとつ訂正させてもらうなら、僕がなんじゃない。僕らがなんだよ」
槙島は頷く。
そしてその日から彼は代理人の事を、と呼ぶようになったのだった。
end
Black Mareとの出会い編終わり。
シビュラシステムはイレギュラーに厳しそうなイメージ。