Black Mare
たった数滴の黒い雫が、透明な水を濁らせる。
暗い靄のような黒い絵の具が水の中で拡散し、徐々に広がっていく瞬間は何度見ても心が痛いものだ。
筆洗に使っていた容器にキャンバスを走らせていた筆先を入れると、柔らかな毛の合間から汚い色が滲み出す。まるで鉄錆が広がっていくよう。それを眺めながらは思う。
ああ、なんて汚いんだろう。
一度汚れてしまった水は、二度と純粋なただの水に戻る事はない。どんなに水を足し入れたとしても、この中に広がってしまった汚れは戻しようが無い。
目の前のキャンバスには神々しく美しい聖人が描かれているというのに、それを描く傍らで筆洗の水はどんどん濁っていく。まるで美しい何かを生み出すために、汚い何かを代償として求められているようだ。
が瞳を伏せ筆を休めていると、背後に人の気配が近づき手を叩いた。
「美しい絵だね」
振り返ると白い髪の長身の男が拍手を送りつつ、にこやかな顔で近づいてきた。
「槙島」
は男の名前を呼ぶ。
少し前にこの学園に赴任して来た若き美術教諭。だがはそれが偽りの顔である事を知っている。そして男もまた、が偽りの顔で学園生活を過ごしている事を知っている。
「しかし、残念ながらこの絵には意味がない。空っぽだ」
槙島の揶揄するような言葉に、は無言のまま俯いた。
「君は特別敬虔なクリスチャンというわけでもなく、ついでに言えば無神論者だ。神など信じていない。どれだけ美しい絵を描こうと、それはただの偶像の模写に過ぎない」
槙島の言葉は正しい。反論の余地も無い。
「そう、お前の言うとおりだ。僕は神を持たないし、マリアの処女懐妊もキリストの復活も、B級映画のワンシーンと同じくらいにしか感じていない。どこかにそういう映画があって、そんなシーンやストーリーがあるらしい……それだけだ」
の返答に槙島は少し気を良くしたらしかった。
「ならば、その絵の真意は?」
目を細めて問いかける。
だが、槙島の言うとおり大仰な理由など持たないは、首を横に振るだけだった。
「意味などないさ。べつにこの絵はポルノでも、コミックでも、なんだって良かったんだ」
「なるほど。意味があるのはそちらの水の方かな?」
容器に溜まった汚れた水に、槙島が視線を向ける。この男はどこまで自分の事を見透かしているのだろうと、は呆れながらそうだよ、と頷いた。
「さしずめ、名画の代償というところかな?」
「まったくお前は、何でもお見通しだから嫌だよ。べつに……意味なんてないんだ。ただ、水を汚さずに絵が描けるのかどうか、試してみたかったんだ」
だが、の試みは失敗した。
絵は完成すれども、水は汚れてしまった。純粋を保つ事など出来ない。
馬鹿なことを、と槙島は笑みを浮かべると、背後からの肩を抱いた。教師が生徒にするにはいささか度を過ぎたスキンシップ――――だが、二人の関係はやり取りからもすでにそれを超えている。
「君が気に病む事なんてない」
耳元で囁かれる声は、熱っぽく擦れている。
「槙島。お前はこの世の誰よりも美しい。だからそんな無責任な事が言えるんだ」
「僕が? そんな戯言を言うのは君くらいだよ」
「戯言なんかじゃ、」
振り返った言いかけた唇を、槙島の指先が封じた。
目を細めた端麗な顔がすっと寄って、呪文を唱えるように言う。
「君は美しい。誰よりも、何よりも、僕はその『黒』を愛している」
は悲しげに瞳を揺らし、やがて目を閉じた。
暗闇から静かに槙島の声が流れ込んでくる。
「見てみるといい。人々は皆、自分の色相を改善させるのに躍起になってばかりで、その本質には無頓着だ。セラピーを受けて保つ色に何の意味が? ストレスフリーな人生の中に、どんな色が生まれる?」
「………」
「僕の色相を白と喩えるなら、確かに君は黒だろう。限りなく闇に近い漆黒。その色は――――きっと君以外、誰も作ることが出来ない。僕はその色を愛し、その事を誇りに思う」
柔らかな感触を額に感じ、口付けを受けたのだと気づいた。
泣きそうな顔で、はぎゅっと槙島のシャツの裾を握り締める。
そして、
「それでも僕は何度だって思う。お前の白と混ざって、灰色になれたらずっといいのに――――」
end
思いつきなんとなくPSYCHO-PASS。
今度のヒロインは僕っこで。
だらだら続きます。