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愛しい、愛しい10





 ”御役目”に戸惑いを覚えたのは何時だっただろう。もうずっと昔の事にも思うが、つい最近まで何も感じずに受け入れていたようにも思う。
 おそらく自分だけの問題ではない。そういう貞操観念が我が国に根付いたのはつい最近の事だからだ。
 巫女が神に捧げられた乙女であるように、神事の中の性行為は神と人間を繋ぐ重要な儀式である。その神聖さ厳格さ故に、行為自体の生々しさは無視される。快楽を求める享楽的な性行為とは異なると、儀式に取り込まれる事により昇華されるからだ。
 走れば息が上がるし、汗もかく。それと同じ生理現象に過ぎないのだと、永らく私は思っていた。
 それは正しい。自分たちのこの奇妙な存在と同じように、それに疑問を持つことは余計な葛藤を生む。心が曇る。考えないようにしていた。
 時の為政者、強欲な豪商、異国の王族 ―――― 誰と身体を結んでも、私は同じように尽くし、従い、傅いた。まるで古くから知る友人のように、生涯を契った夫婦のように振る舞った。
 その行動に偽りはない。私は本当に彼を愛しく、焦がれるように思っていたのだ。どの時代においても私は彼の良き理解者であり、良き友、良き妻、良き伴侶だっただろう。この港を訪れた彼にすべてを捧げた。
 私の平衡が傾いでしまった最初のきっかけは、イスパニアさんとの別れ。
 彼との国交を失った事に衝撃はなかった。国と国の利害が伴わなければそういう事はあって当然。私はその別れを容易く受け入れた。私の港はオランダさんのものになり、私はイスパニアさんと同じように彼に尽くした。
 きっかけを与えたのは彼のあの十字架だ。私の部屋に落ちていたそれを、オランダさんがわざわざ本人へ返しに行ったのだ。後で送りますからという私の言葉を無視して、出航の支度をしていたイスパニアさんの元へわざわざ私を連れて行った。
 短いやりとり。国同士の牽制のつもりだったのか、私にはよく分からなかった。部屋に戻った私がそれを問うと、オランダさんは眉間に皺を寄せて毒づいた。
『つまらん女やの。そんな事もわからんで女房面か』
 伴侶であるべき彼にそんな事を言われ、私は柄にもなく狼狽えてしまった。何を間違えているのか分からなかった。
『俺に謝ってもどもならんわ。ただ……人を馬鹿にすんのもええかげんにしねま』
『それは……どういう……?』
『ほんならスペインも振り回され損じゃの』
 結局オランダさんは答えらしい答えを教えてはくれなかった。彼との二百年の生活は平穏だったが、その言葉がいつも私に答えのない不安を覚えさせた。
 彼との生活が幕を閉じる頃、彼はもう一度だけあの時と同じ渋い顔を見せた。
『次はちゃんと好いてやれ。いくら国でもほんくらいで罰は当たらんさけ』
 誰をという問いに、オランダさんは更に皺を深めた。愛用の煙管でぷかりと煙を吐いてから、
『次この部屋に来る男やざ。ちゃんと名前読んで、目ぇ見て、人間と同じようにすればエエんじゃ』
 と呟いて、私の元から去って行った。
 私の平衡は傾いでいった。私達は人間じゃないのに、人間と同じようにすることは出来ない。それでも、彼らの温かな愛情に憧れて同じようにしているつもりだった。私のこれは違うの? 何が間違っているの? 答えが出ないまま、私はどんどん揺らいでいく。
 開国してから、この部屋を多くの人が訪れた。私はうまく応えたつもりだった。その人の国の言葉を覚え、料理を振る舞い、好きなこと・嫌いなこと、何でも覚えて一層尽くした。
 それでも私の動揺が伝わってしまうのか、昔のように上手く出来ない。皆、怪訝そうな顔で、不機嫌そうな顔で、悲しそうな顔で私に問う。
『どこを見ているんだい?』
『お兄さんをちゃんと見なよ』
『俺のこと、わかったように言うんじゃねぇよ』
『俺様の言葉、ちゃんと通じてんのか?』
 どうしてうまく出来ないんだろう。なぜ誰も満足してくれないんだろう。私じゃ駄目なのですか? もっともっとちゃんと、貴方のためになりたいのに。
 ぐらぐらと揺れて。やがて私は転倒しそうなほど傾いで、見かねたあの人が教えてくれた。この港と古くから貿易を続けながら、唯一この部屋に上がろうとしなかった人だった。
『おめーは誰も好きになれねぇあるよ』
 相手がどれほど好いてくれているとか、どうしてあげたいと思っているとか、自分への好意のすべてを見ようとしない。愛情を注いでもコップの中の水は増えも減りもしない。初めからいっぱいのコップに入っているのは、自分へ向けられた愛じゃないのだと気づいて落胆しない男がいるか。最初から最後まで、演技でもなく、騙しているわけでもなく、侘び入れもせずに錯覚し続けているなんて……そんなのは正気の沙汰じゃない。
『おめーの旦那は空想の中の男ね。スペイン、オランダ、アメリカ、フランス、イギリス、プロイセン……都合よくあいつらが混ざった奴なんて存在しねーある。あいつらは全部べつの……歴史も文化も言葉も地理も異なるまったく違う国あるよ』
 私は”御役目”に誇りを感じていた。神事に仕える巫女のように思い込んでいた。そうあることでこの国が富み、物事が潤滑に進むのだろうと思っていた。
 だけれどこの行為は、もっと生々しくて感情が入り乱れていて、まるで人間のように……愛しさを覚えるべき行為だったのだ。
 私は平衡を失い、それからよく泣くようになった。数百年まったく成長しなかった身体は途端に発達し、人間の女のようになった。楽しい歌がうまく歌えなくなり、人前で肌を晒すのが恥ずかしくなり、酒や煙草といった嗜好品の味を覚えるようになった。あれほど大好きだったお祖父様と意見や好みが合わなくなり、距離を感じていった。
 私は変わってしまった。お祖父様とそっくりだった姿はまったくの別物になってしまった。
 だが、なぜか皆はこの姿を好み、前のように”御役目”への不満は聞かなくなった。依然として昔のように上手く出来なくなってしまったのに。
 最近私は『愛している』という言葉を聞く度に、胸が苦しくなる。同じように同じ言葉を繰り返す事が出来なくて、未だその言葉に返すべき言葉が見つからない。

end


来訪者に仕えることが重要で、その先は見えていなかったことに気づいてしまった瞬間。