愛しい、愛しい08
咥えたタバコの先から灰が零れそうなその瞬間、
「ずいぶんな体たらくだな、優等生」
音もなく近づいた男が、灰皿を差し出し散った灰を受け止めていた。
無言で見つめ合うのは数秒足らず。男は唇からタバコを抜き取ると、許しも得ないのに勝手にそれをもみ消した。何をするんです、と黒い目が咎めるように見やる。すぐに傍らに置かれたシガーケースから新しい紙タバコを手に取り、それを口に咥えた。だが、火を灯す前に奪われ、ようやくそこで文句を口にする。
「何するんですか」
政界のお偉方が贔屓にする格式高いこのバーには、不釣り合いな若い声。薄っぺらな安物スーツの東洋人がここのドアをくぐれたのは、ボーイに差し出した名刺にアーサー・カークランドの名があったからだ。それを寄越したのはきっと自分の心情を斟酌してくれたのだろうと勝手に思っていたが、もし説教を聞かせに来たのであればそんなつもりは自分にはなかった。
イギリスはカウンターの上に載った琥珀色の液体を湛えたグラスを一瞥し、何杯目だ、とバーテンに確認した。バーテンが答える前に、片付けろと勝手にグラスを下げさせる。
「ちょっと……何するんですか勝手に」
「安物のシガーにスコッチか。味が台無しだな」
「貴方が味をどうこう言うなんて、明日のロンドンは雹が降りますね」
「そうか? 女の味にはうるさいつもりだがな」
挑発に挑発を返され、は露骨に顔をしかめてみせた。度の入っていない太枠の眼鏡、ハンチングにでも突っ込んできたのか一つに束ねただけのぼさぼさの髪。なんだその格好、と笑ってやりたくなった。
「面白い仮装だな、なあ。一応ここはドレスコードにはうるさい店なんだぜ?」
そう言うイギリスの装いは、サビルロウに店を構えるロイヤル・ワラントの三つ揃えというわけだ。
「貴方の名刺のおかげですんなり入れましたよ。怪訝な顔ひとつせず、躾の行き届いた良い店ですね」
「お上品な客はそういう店側を試すような真似はしないもんだぜ? 俺の名刺がなけりゃ、叩きだされてる」
「だったらダウンタウンの飲み屋にでも行きますよ。もともとそうするつもりだったんです」
なるほど、とイギリスは目を細め、の量販店のスーツや化粧っけのない顔を眺める。馬鹿だなお前はと胸中で続け、どんなに泥で汚れても白鳥は白鳥だろうがと呆れた。羽の色など関係ない。アヒルにはなり得ない。
「それじゃ困るからここに来させたんだよ。わかってんのか? ティーンみたいな面の東洋人がんなトコに顔出したら、エールを注文する前に便所に連れ込まれてる」
「自分だって童顔のくせに。構いませんよ、あいにく私は酒を飲みに来たのです。鼻の一つでもそぎ落としてから、注文するとしましょう」
の減らず口に皮肉屋のイギリスも流石に顔をしかめた。
「ダーリン……俺の忍耐力でも試してるのか? 俺は恋人には優しい男なんだぜ。だから困らせないでくれ」
「恋人には……ねえ?」
更に挑発するようにが唇の端をにんまりと吊り上げた。
途端にイギリスの手の中にあったグラスが傾けられ、透明な液体がの頭からぶちまけられた。
「!?」
驚いた顔を見せたのはだけ。カウンター先のバーテンダーは一瞥すらせず、グラスを磨いている。まったく躾が行き届きすぎていて人間じゃないみたいだ。
「奥を借りる」
イギリスは短く告げると、の両腕を拘束して店の奥へと引きずり込んだ。さすがにも暴れたが、誰一人としてこちらに顔すら向けない。
「俺はここじゃあ顔が利くんだ」
個室のソファの上にを突き飛ばし、イギリスがその上に馬乗りになった。不敵な笑みを浮かべ、の白い顔を見下ろす。
不釣り合いな眼鏡をその顔から抜き、ぼさぼさの髪を整えてやる。水滴を吸ったそれは指先で少し梳くだけで、すぐにいつもの光沢を取り戻す。
「……そのつもりだったのなら、最初からホテルにでも呼べば良かったじゃないですか」
「そんなつもりはなかったさ。珍しくふてくされてる可愛い恋人を慰めてやろうと思ったんだ。でもお前が可愛くない事を言うから……」
「口が悪くなったのは貴方のせいです」
「そりゃ悪かったな。黙っていればお前は本当にいい女なんだ」
イギリスは身体を折るように屈ませると、の唇に舌を這わせ間を割った。安いシガーのしびれるような苦味と、上質のスコッチの味が広がる。
「なあ、何が気に入らない? そんな……日本みたいな格好でお前は何がしたかったんだ?」
薄っぺらな生地のジャケットをくしゃくしゃに丸めて放り出す。安物のシャツは少し乱暴に肌蹴けさせただけで、簡単にボタンが飛んでしまった。色気のない紺一色のネクタイはまるで葬式につけていくような色で、華やかさのかけらもなかった。
「ダーリン、お前には赤が似合うって言わなかったか? こんな質の悪いシャツより、シルクのやつを着ろよ。なんて下着をつけてやがる。俺の送ったレースのやつはどうした」
頭からつま先まで駄目出しの嵐だ。せっかく俺が誂えてやったのにと、イギリスはご立腹の様子での仮装を剥いで行った。一枚、一枚、外殻を剥がれるたびに、は自分を偽る事の虚しさを知った。
「無駄だよ、ダーリン。お前は男にはなれない。お前は日本にはなれない。どんなに誤魔化そうとしたって別の何かになれやしない」
まるで呪いのような言葉に、は嗚呼……と小さく呻いた。
「お前はお前の役割を、疑うようなことをしちゃいけないんだ」
俺も、お前も、他の奴らも、どれほどの葛藤を抱えていたとしても、それを辞める事は出来ない。国と国に連なる者達は、自らの意思でそれを辞めてはならない。
今にも泣きそうなの頭を抱きしめて、イギリスは額に口づけを落とした。
「俺の前ではいくらでも泣いて構わないから。だからせめて自国民にだけはそんな顔は見せてやるなよ」
イギリスが用意させたシルクのブラウスに袖を通すと、はいつも通りの聞き分けの良い恋人の顔で傅いた。貴方に仕えることが私の幸福ですとでも言わんばかりの従順な姿だけを見れば、他の港街の女と大して変わらない。着飾らせ、自分好みに調教して、足を開かせることなど、七つの海を支配してきたイギリスには一世紀以上前に飽きた遊びだ。
肉体の恭順より、精神の恭順を得ることは何百倍も楽しい。その精神が複雑であればあるほど、その心を支配したいと欲望を覚えた。
「ダーリン、俺はお前の不貞を責めたりはしない。そもそも俺たちみたいなのに、そんな貞操観念は意味が無い。俺がお前に求めるのはただひとつ。お前がこの国にいる時、俺がお前の国で二人きりで居る時、お前は俺に偽らないこと。公娼ではなく外交の調整役でもなく、お前の顔を俺に見せてくれ」
はい、仰せの通りに。
はにこりと微笑んで静かに頷く。だが、イギリスがそうじゃないだろう、と早速指摘すると、の顔はみるみるうちに悲しみの色を広げた。暗い夜空のように途方も無い黒い両目を覗き込み、イギリスは満足気に頷く。
「それでいい。俺だけの前ではそれでいいんだ」
end
優しいようで実は精神攻撃が一番きついイギリスさん。
以下、蛇足設定。
最初はそれを役割として何も考えずに請け負っていたけれど、色んな国と関係を結ぶ内に役割として割り切れなくなってきている。(対フランス兄ちゃん、ルート編)
時々苦しくなって自棄になったりしちゃう。不貞腐れたいんだけどとしてそれをしてはいけないと思っているので、変装して飲んだくれてみたり。敬愛する爺様みたいな格好をしているのは願望の現れ(イギ編)、と偏移しています。
イギはが葛藤を抱えつつ何事もないような顔を作っているのを知ってるので、弱いところを突いて俺だけにはそれを晒してくれ、と言う。
優しく逃げ場を用意してあげたようでいて、の”御役目”としてはイギリスだけ特別扱いするわけにもいかず、さらに葛藤のドツボ。弱ってるヒロインぷまいです、というゲスリスルート。