ドレッサーの前に座った頭がこちらを振り返ろうとする。それを動かないで、と言うように手で制して、フランスは艶やかな黒髪にブラシの歯を通す。
「それは……不毛ではありませんか?」
鏡の方を向いたは、返答に困ったように言葉を止めてから尋ねた。
「そうね。不毛ね。でも、それがいいんだよ」
「おかしなお人です」
「ええ、そう? 共感してもらえると思ったけど。だってちゃんもそうでしょ?」
「え?」
鏡の中の少女が身動ぎする。振り返ろうとする細い首を手の平で制し、鏡の中で動揺する瞳をじっと見据えてやった。
「特別を選ばないって事は、皆を平等に選ぶのと一緒でしょ? 相手が自分のこと好きじゃなければ、愛さないことを責められずに済むもんね」
愛しい、愛しい07
言い訳を探しているんでしょう、と昔女に詰られた事があった。
貴方はモテるものね、さぞ毎晩お忙しいことでしょうね。
れっきとした王家に連なる貴族の令嬢だったが、男を詰るときの言葉はその辺りの娼婦と大して変わらなかった。
フランスはただ困ったような笑みを浮かべる事しかできなかった。
この娘はもっと聡明だったはずなのに、こんな詰まらない三文芝居のような言葉を口にさせたのは自分なのかと、不躾にも憐憫を感じてしまった。ああ、だから人間との恋というのは良くない。たった数年で、いつだってこうなってしまうのだから。
愛されすぎることは罪だなどと口にすれば、どこぞの眉毛やらトマトが鼻を鳴らして嘲笑を浮かべるだろうが、単に奴らはその真実を見ようとしていないだけだ。いかに愛の国といえども、応えられる愛情には限りがあり、すべての愛を受け止めることは出来ない。
何かを選べば、他の何かが手の平から溢れる。うまく両手を使おうとしても、やはりそれは抱えきれない。
人のように何か一つを選ぶことは出来ない。永い時間の中で日々、刻々と変わっていってしまう彼らの一瞬を留めおくのは酷く困難で、幾つかを手にした瞬間、その何倍、何十、何百倍というものを捨てている。
手の中にあるものだけで満足できればいいのに、如何せん、なまじ愛の国などと名乗ってしまったが故に、通り過ぎて行く者たちを目で追ってしまうのだった。
嗚呼、ごめんね。ごめんね。
彼らの去って行く悲しげな瞳を見る度に、どうして自分なんかを愛してしまうのだと後悔が胸を襲う。
顔を隠して、素性も名前も偽って、そうして実らせた恋すらも、まるで皆がフランスの正体を見透かすように決まって別れ際にあの目をするのだ。
知っていたわ、貴方は私だけの人じゃないもの、いつだってどこか違うものを見ていたわ。そう言って。
「俺けっこうね、イギリスとかアメリカのこと好きなのよ。あいつら絶対俺のこと好きにならないから」
アイツラにはナイショね。
しぃっと唇の前に人差し指を立てて、鏡の中のフランスがウィンクをした。
「だから安心できる。安心して選ばなくて済む。美しすぎるのは罪だよね。世界中から愛されちゃっても〜大変」
「フランスさん……」
「なに? 俺の話よ?」
は少しだけ笑い、勿論です、と頷いた。
「仕方ないですよ、貴方は愛の国ですから。色んな人に愛されるのは当然。それと同等の愛を皆に返すなんて無茶です。とても同じだけの愛を返すことなんて出来やしない。心は有限なんです。頭は一つしかない」
「そう。心臓も一人にしか捧げられない」
肯定するようにフランスは首を縦に振った。
「一つしかないのなら、誰だって一番愛する人にそれを捧げたいに決まってるよね。それが出来ないなら、誰にもあげなければ喧嘩にならなくて済むよ。だって心臓は分けられないんだからさ」
「そうですね。心臓は」
繰り返して、おもむろには顔を覆った。泣いているのかと思ったが、弱々しいものの思いの外はっきりした声が返ってくる。
「私を……責めていらっしゃるのですか?」
「……いいや」
嘘だった。意趣返しの一つのつもりであったのは事実だ。どうせお前は誰も選ばないんだろうと、いつか自分が言われた同じ言葉を告げてやりたかった。
まるで過去の自分を見ているようで、自嘲的な笑みが浮かぶ。
そうやって目を覆ったって、離れていった手の温かさを忘れることなど出来ないのに。
「ねえ。誰か一人を選ぶことは、君にとって悲しいこと?」
目を覆っていた鏡の中の少女の手を取り、視線を逸らさぬまま手の甲に口付けた。驚いた顔の黒い瞳を見つめたまま、ねえ、と耳元で繰り返す。
「恋は時に辛く苦くあれども、楽しくあるべきだよ。そんな顔をしてるちゃんをお兄さん見過ごせないな」
流れる仕草で髪を一房取り、花の芳香が微かにするそれに口付ける。
「それは……赦されないことです」
泣きそうな顔で答えたを、鏡越しに見据える。瞬きすらも許さぬほどにまっすぐに見据え、
「それは、誰が、誰を、赦さないの?」
「………」
「お兄さんなら本気にならないと思ってた?」
の動揺は言外にそれを肯定した。
そりゃあオクユカシイ日本に比べれば、フランスは軟派に見えることだろう。恋愛上手で奔放という印象を与えていることは自覚している。だが、だからといって軽いわけでも聞き分けがいいわけでもない。むしろ常に本気なのだから、恋に落ちればそれを真摯に追いかける。恋をする自分自身をどの国よりも素直に受け入れ、好きだと言えるのだ。
「ちゃんは知りたくなかったかもしれないけど、俺はわりとマジでちゃんが好きなのよ。初めは簡単に落とせそーなんて思ってたのに意外と手強くて、真面目でも聞き分けがいいわけでもないから、こうやって君を追いかけてるわけ。で、俺はそうしてる自分のこと格好わるいなって思いながらも、意外と嫌いじゃないんだよね」
恋を楽しんでいる。この恋は楽しい。
「ちゃんが俺のこと好きになってくれたら、もしかしたら俺は冷めるのかもしれない。でもちゃんは俺のこと、選ばないでしょ? だから俺たちはこうやってぐるぐる、ぐるぐる不毛な追いかけっこを繰り返すってわけ」
君は追いかけっこをしてるつもりはないかもしれないけどね、と意地悪な笑みを含めて続けた。
「ねえ、俺の顔を見てご覧よ」
囁きに従えば、鏡越しではないフランスの顔は、常時よりも赤く動揺のようなものが浮かんでいた。俺だってね、と緊張した面持ちの彼が言う。
「好きな子と居ればドキドキするし、好きな子に見てもらえなかったら傷つきもするのよ」
鏡越しじゃ分からなかったかもしれないけど。
「俺も他の奴らと同じで、君のこと自分のものにしちゃいたいの。ただ長考が少しだけ得意で、少しだけ気が長いだけ。だから俺のこと、安全だなんて思わない方がいい」
の手を握りしめたその手の平はしっとりと汗ばみ、温かなぬくもりを持っていた。逃げ場のない現実をつきつけられて、はただ狼狽する。
もしフランスが余裕の笑みで、の葛藤すらも下らないと笑うように一時の関係を求めてくれたなら、いっそ言い訳も出来ただのに。こんなものは生理現象だ、儀式だ、ただの戯れだ。国と国の間に本心はない。慣れ合い、化かし合い、体を重ねたってそんなものは自慰の延長に過ぎないのだと、
これでは言い訳が出来ない。彼は真剣に恋をして追ってくる。冗談に出来ない。冗談になどさせないと本気を向けてくる。
嗚呼、可哀想に。過去の自分のように情けない顔をしたの額に、ちゅっとキスを落とした。
「ごめんね。選ばれなかった側になって、初めてこう言えるよ」
我儘で、一途で、甘い呪いのような言葉。
”ねえ、私を愛して?”
end
兄ちゃんは愛した人も愛せなかった人の事も、
みんな忘れず覚えていてくれてそう。