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「ほれ、帰りねま」
 チャリンと響く無機質な音。ぼんやりと視線を向ければ、スペインの身につけていた十字架のネックレスが転がっている。
 あー、なんなん。なんなん、これ。
 チューリップ頭の男が煙管を咥え、犬でも追い払うように手を振る。
 ああ、ほんまに。なんなん、これ。
 血気盛んだった自分が男に殴りかからなかったのは、その光景がまるで他人ごとのように思えたからだ。こんな風になるだなんて、誰が想像できただろう。こんな東方の小国に自分が踊らされて、そしてこんなにも惨めな気分を味わうなんて。
 黒い少女は男に肩を抱かれ、こちらに申し訳なさげな視線をむけながら、そのくせ一言も発さなかった。
 別れの言葉すらないなんて、ほんまに、なんなんこれ。


愛しい、愛しい06




「馬鹿だねぇ、お前」
 悪友の一人がぽつりと呟く。もう一人の悪友は食い過ぎたとか言いながら席を立ったから、わざわざ二人きりのタイミングに話しかけて来たのだと理解する。
「馬鹿とはなんやねん」
「だって本当の事だもん」
 フランスはワインの酒気を楽しむようにグラスを傾けて、ふわりと笑う。
「お前だってプーのこと笑えないくせに。ミイラ取りがミイラになった」
「……自分かてまんまと誑かされたやろ」
 仕返しだとばかりに、相手の痛い腹を探ってやる。フランスは苦笑しながら、そんな事もあったねえと笑った。
「昔のことやん」
「そ、昔のこと」
 だからこそ、こんな風に同じ傷を負ったもの同士で昔話など出来るのだ。
 スペインもフランスもあれを何かの敗北だとは感じていない。プロイセンのように失敗したとも感じていない。だが、うまく行かなかったなと思うことはあった。正直なところ、もっと簡単に、あの程度の小娘は手中に収められると思っていたからだ。
「あの頃のちゃんなぁ、オトコにも全然慣れてなくておぼこかったんやで。人間みたいに血ぃでえへんから分からんけど、たぶん俺が初めてやったと思う」
 スペインがいすぱにあさんと呼ばれていた頃の話だ。スペインはが出会った初めての西洋人で、おそらくその予想は正しいと感じた。
 蜜月と呼ぶには、ポルトガルやらオランダやらがちょっかいを出してきたが、それでも間を阻まれるほどではなかった。そのままゆるゆると懐柔出来るだろうと高をくくっていたが、あの日、青天の霹靂とばかりに別れを切り出された。
「そりゃお前、あっちこっちで節操ないことしてたしね。あの娘の上司も危険だと思ったんでしょ」
「そやけど、フランスに言われるとなんか腹立つわー」
 ははは、ひどいわぁ。怒りもせず、フランスは笑って聞き流す。だから安心して不満を口にできるのだ。
「そりゃ俺かて下心はぎょーさんあったけど、あんなつれなくせんでもええやん。親分、傷ついてもうたわー」
「せっかく子分にしてあげようと思ったのに?」
 にっと目を細めて笑うフランスに、スペインは虚勢など忘れて素直に肯定した。
 まあ、段階は踏まなければならないと思ったけれども、それでも決して悪い仲ではなかった。それが突然、船が座礁し転覆だ。目の前で据え膳を掻っ攫われたようなあまりに間抜けの状態に、最初は何が何だかわからなかった。
 地面に捨てられた十字架。ああ、あの十字架は俺なのかとぼんやりと理解して、その無残な姿に照れ笑いがこぼれた。
 なんや、かっこ悪いなぁ。こんなかっこロマには見せれんわ。親分なんか間違えてしもうたんやな。
 笑いながら……沸々と胸の奥で渦巻く何かに耐えたのだろう。自分はしつこい方ではないと思っていたのだが、どうやら自分より格下の相手に噛み付かれたようで、それがカチンと普段意識しないプライドを傷つけたのだと思う。
 何十年だか、何百年だか後、再び彼の国と国交をもったその時、スペインは以前より酷くを抱いた。
 久しぶりやんなあ、ちゃん。蘭ちゃんには優しくしてもろたん? 親分あの時、悲しかったんやで? あんな風に初めてのオトコ捨てたらダメやん。親分ちゃんとお別れくらい言いたかったんやで?
 嗜虐的な笑みを浮かべながら、未発達なその身体に鬱血の痕と歯型を残して。それで泣いてくれでもしたら、いくらかは胸がすく思いだったかもしれない。
 罪悪感を覚えろ。後悔しろ。せめて後ろ暗い過去を思い出せ。
 だが翌朝、次の航海、次の逢瀬でも、は初めて会った時と変わらぬ、まるで恋を覚えたての少女のような顔で微笑む。
 あ、こらあかん。
 そうしてようやくスペインは、彼女が魔女なのだと気づいたのだ。
 悪気などあるはずがない。にあるのは、この港を訪れた者に精一杯尽くすということだけ。それだけをまるで生まれてきた意味のように守り続けている。己の役割への義務感や誇りはあれども、きっとそこに恋慕の情などないのだ。いや、あったとしてもそれは意識できるようなものではない、博愛に近い広義の愛情。口づけも抱擁も、いくら繰り返してもなんの足し引きにもならない。
 最初から最後まで同じように愛し、決して増える事も減ることもなかったのだ。
 あまりに自然すぎて、気づけなかった。
 この娘も、この娘を創りあげた者も怪物だ。無意識に恋のようなものを錯覚し続けているなんて、それはきっと何か間違った存在に違いない。
 この娘は間違って生きているのだと理解したその瞬間、オランダへの恨みの念は氷解するように消え去った。
「蘭ちゃんも難儀な子やなぁ」
 どんな気持ちで二百年間、側で見守り続けたのか。
「ま、気づいちゃった俺たちは、みんな揃って馬鹿だよねぇ」
 真面目すぎて罪悪感に苛まれたプロイセンも、限りを知ってしまったスペインも。そして自分もだと、フランスは自嘲的に笑いくるりとグラスの中のワインを回した。

end


プロイセンは敏い、スペインは勘がいい。そんな感じ。
プロイセンはヒロインを受け入れも突き放しも出来なくなって袋小路。
スペインはこの子の特別にはなれないと、早々に気づいて手を離した。
世界のお兄さんは、面倒くさくてもうまく付き合ってしまうんだと思う。