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愛しい、愛しい04





「あいつは魔女だから、お前は近づくなよ」
 兄の嘘を信じていた期間は、子供がサンタクロースを信じる期間よりずっと長かった。自分は取り分け素直な子供というわけではなかったが、普通の男の子よりもメルヒェン思考なのだと青年期になってから自覚してしまった。
 クヌートのぬいぐるみを大事にしていることがハンガリーにばれた時よりも、それはそれは気まずかった。貴方は本当に魔女なのかと本人に尋ね、驚いた顔をしてすぐに彼女に微笑まれたからだ。可愛らしい方ですね、と少年に向けるべきではない彼女の感想に、耳の先まで赤く染まった。
 ドイツがドイツとして成長仕切る前、彼女や彼女の祖国がプロイセンに色々な事を師事していた頃のことだった。
 子供の頃のドイツは素直に兄の忠告に従っていたが、やがてサンタクロースの正体を疑うのと同じように、の正体を疑い始めたのだった。
 初めこそ恐れた彼女の纏う漆黒は、ヨーロッパでは上質の絹糸でしか表すことが出来ぬ色だった。奇しくもパリ万博と共にジャポニズムがヨーロッパで開花した頃、誰もがその色に魅惑され賛辞を送った。
 尚更になぜ兄は彼女を魔女と呼んだのか不思議でならなかった。フランスもイギリスも、あの黒髪の娘の手を取り晩餐会で見せびらかせたがるのに。なぜ、兄はあの美しい人を魔女と呼ぶのだろう。
 実を言うと、兄に内緒で晩餐会に紛れ、こっそりと他の者に尋ねた事があったのだ。
 オーストリアはあのお馬鹿さんが、といつもの口調でプロイセンの事を怒っていた。ハンガリーは少しだけ微笑んで、ドイツちゃんは知らなくていいのよと子供に言い含めるように諭した。
 フランスとイギリスには、が席を外した時に声をかけたが、こちらを子供と侮ってかまともに回答すらしてくれなかった。
「ガキにゃわからねぇよ」
「女性を優雅にエスコート出来るようになったら分かるかもねぇ」
「俺は真剣に聞いている」
「俺だって真剣に答えてるぜ?」
「そうそう。今のドイツちゃんにはプーの真意は分からないとおもうよ?」
 ドイツは癇癪を起こすように、もういいと言い放ってその場を去った。くすくす、けたけたと嘲笑が背を追いかけてくる。苛立った。どいつもこいつも俺を子供扱いして、俺だって立派な国なんだ、と。
 どこをどう走ったのかは分からないが、ドイツは中庭の辺りまでやって来てしまっていた。少し頭を冷やしてから帰ろうと、庭をぶらぶらと歩いているとふいにぱしゃりと水音が響いた。噴水の規則正しい水音とは異なるその音を頼りに、音のした方に目をやると噴水の外枠に腰をかけて、水面を足で蹴っている少女の姿があった。
 月明かりに漆黒の髪が揺れる。白い顔は夜空を仰ぎ、その目元からきらきらと涙が零れ落ちた。
 ドイツは思わず息を止めた。
 その光景に魅入られて、呼吸をすることさえ忘れてしまった。月明かりに照らされた水辺に佇む姿は、まるで一つの絵画のように余りにも出来過ぎた美しい光景だった。
 あれだけ近づくなと言われたがそこに居る。すぐに踵を返し戻るべきなのだろうが、どんな理由であれ泣いている女性を独りにしていいものかとわずかながらに葛藤が生まれた。例え相手が魔女であったとしても、ハンカチを差し出すくらいは罪にならないのではないか、と。
「そこで何をしているんだ?」
 ドイツの声には弾かれたように顔を向け、慌てて濡れた顔を袖で擦りあげた。
「あ……ドイツ君でしたか。……月が綺麗だったものですから」
「日本人は満月の晩に、噴水で水浴びをするのか?」
「いえ、これは……」
 誰かが誂えたであろう深紅のドレスは裾先がぐっしょりと濡れ、光沢のあるハイヒールは草の上に放り捨てられている。
 ドイツがハンカチを差し出すとは戸惑ったような顔をした。なかなか受け取ろうとしないので、ドイツは勝手にの前に腰を屈め水滴を垂らす足をハンカチで包んだ。
「あ、いけません」
「その足で靴を履いたら、この素材はすぐダメになる。だからってドレスで拭くのはもっとダメだ」
 は恐縮しきった顔で、身体を固くしていた。考えなしに噴水に足を突っ込んだのかと思わず呆れ、への恐怖や懐疑心はいつの間にかどこかへ行ってしまっていた。
 両足を丁寧に拭い、片足ずつ靴を履かせてやる。一体誰が用意したのかは知らないが、よく見れば靴もドレスと同じ色のフリルで飾られていた。足の指を彩るペデュキュアも、足首を飾るアンクレットまで同じ意匠で飾られている。
 ドイツはぼんやりと、これは兄の趣味ではないなと考えていた。誰のものかはさておき、兄以外の誰かの意向だと理解した時、目の前の魔女は想像よりも不自由で弱い存在だと気づいたのだった。
 立ち上がると、ハイヒールの高さを含めてもドイツの方が少し高いくらいだった。兄の背に隠れて見上げるばかりだったから、いつの間にか背を越してしまっていた事に気がつかなかった。
 ドイツは無言で立ち去るつもりだった。はただ恐縮しきって、謝罪ばかりを口にしていた。謝罪よりも感謝を口にすればいいのに、そんな事を考えながら、思わずあの質問が口をついていた。
「貴方は本当に魔女なのか?」
 誰もが本当の事をドイツに隠したがったその問いを、本人にぶつけていた。
 は少しだけ驚いた顔をしてから、
「可愛らしい方ですね」
 微笑んだ。瞬時に馬鹿にされたのではと頬を赤らめたドイツだったが、は微笑みを湛えたままうなづいた。
「そうです、私は魔女です。東に住まう黒い魔女ですよ」
 少しだけ悲しみを帯びたその微笑みと共に、ドイツはその後百年に続く呪いをかけられたのだった。


end


人名表記にしなかった事をすごく後悔してる今日このごろ。
この後もドロドロ展開しかないので、
そのうち直すカモ。