作家ならではの浪漫思考なのかと問えば、それが正しい訳なのでしょうと彼女は答えた。
「本来、我が国にはそのような言葉はないのです」
愛があるじゃないかと答えれば、それは本来そう言った言葉ではないのです、といらえ。
「”いとしい”とは本来慈しむこと、大切にすることを指すのです。それに”愛しい”と漢字をあてたとき、この字は”かなしい””おしい”とも読みます。私はその言葉こそ貴方のお国の言葉に近しいと思うのです」
それは違う。悲しいはSadだ。まったく真逆の言葉だろう。
そう指摘すると彼女は淡く微笑んだだけだった。なぜ愛と書いてかなしいと読むのだろう。月よりも何故目の前の相手を褒めないのか、その時は只々不可解だった。
「お前は時々遠くばかりを見るな」
そう言ってイギリスは窓辺に座ったを、ベッドの上へと引き寄せた。
愛しい、愛しい02
重苦しい沈黙にイギリスの酔いはすっかり醒めてしまっていた。それもこれもあのクソ髭のせいだ、とどこかへと消えたフランスの事を脳内で全力で呪う。
カウンターには眼鏡をかけて戻ってきたアメリカと二人きり。アメリカの想い人の正体を知ってしまい、イギリスは何とも言えない気まずさを覚えていた。
「あ、ああ……そういえばよ、お前んち最近、景気いいんだってな! それだけ調子いいんなら、たまにはこっちの手伝いも」
「イギリス。あの娘の事だけどさ……」
無理矢理にでも話題を変えようと思った目論見はまんまと外れた。アメリカの真剣な、だがどこか酒気を残すとろんとした瞳が眼鏡ごしにイギリスの翠の瞳を見ていた。
「君は、あの娘のことどう思う?」
まさか話を振られるとは思わず、イギリスはしどろもどろになる。
「あ、ああ……酷い奴だよな。お前のことそんな風に誑かしやがっ、」
「彼女のこと悪く言わないでくれよ」
ぴしゃりと言葉を遮られ、イギリスはそれ以上言葉を紡げなかった。アメリカはイギリスがその娘の正体を知ってしまった事に、気づいたのだろうか。
しばらくしてからアメリカは溜息を漏らし、ごめん、と呟く。
「ごめん、それにありがとう。イギリスは……俺のこと気遣ってくれたんだよね。ちょっとだけ、嬉しかったよ。俺も、酷い、ずるいっていつも思ってるから」
こんな風に素直にイギリスに感謝するアメリカなど、一体何十年ぶりだろう。その豹変にイギリスはぱしぱしと瞬きを繰り返す。
「あの娘はもしかしたら魔女なのかもしれない」
「ま、魔女?」
「そ。昔イギリスが聞かせてくれたお伽話みたいのさ。綺麗な顔してるのは魔法の力を使ってるだけで、本当は心も顔も醜い魔女なのかも。俺は悪い魔女に心を奪われて、こんな充てもない恋に身を焦がす呪いを受けたんだ」
だとしたらどんなに楽だろう、と世界のヒーローは悲しく笑った。
「悪い奴なんて倒しちゃえばいい。お前の正体はお見通しだって化けの皮を剥いでやればいい。さっさと尻尾を見せろ、本当は君は俺の事を利用しているだけだ、俺のことなんて愛してないし心の中で笑ってるんだろう……そう何度も頭の中で繰り返した」
それでも呪いは溶けない。何十年も、何百年も、溶けない氷の弓矢が心臓を貫いて痛みを与える。
「辛いんだ」
アメリカは驚くほど素直に心情を吐露した。
「ねえ、イギリス。君ならこの呪いを解けるかい? もう、苦しくて、辛くて、どうしようもないんだよ」
「アメリカ……」
「イギリス、どうにかしてよ。助けてよ。昔みたいに、君の魔法で悪い魔女をやっつけてよ」
アメリカのスカイブルーの瞳が歪む。こんな風に自分に縋るアメリカなど、一世紀以上見たことがない。それこそかつてあの何もない大草原で、共に過ごした日々のようだ。
「俺はやっぱり……まだガキなのかな? 俺だって、国の恋愛が上手くいかないことくらい分かってるよ。俺たちに生涯の伴侶はいない。抱きしめあったって、頭の中はべつの事を考えてる。世相と共に恋人は変わるし、損得感情で誰とだって寝れる。一番大切なのは自国の民、その次に大切なのが自国の利益。最初から最後まで、俺たちは自分のことしか考えられない」
そっちの方がよっぽど呪いだね。
アメリカは泣き笑いをし、イギリスはその言葉に呼吸を止めた。
国は自らの意思で国であることを辞められない。自らの意思で上司の意向に反する行動を取れない。自らの意思で自らに損害を与えることは出来ない。自らの意思で死ぬことも、生きることも出来ない。
「アメリカ……」
薄暗いバーの中でさえ、アメリカの流した涙はきらきらと輝いているように思えた。
かつて愛した、何よりも大切に育んだ弟がそこに居るような気がした。これは”いとしい”か”かなしい”か、そんな事を頭の端で考える。
「もしお前が望むなら、記憶を消してやってもいい……」
イギリスは静かに告げた。
偉大なる魔法使いの魔法によって、王子様の呪いは解かれました。王子様は魔法使いにひどく感謝し、二人の国は未来永劫どんな国にも負けないほどに栄えるのでした、めでたしめでたし。
こっちの方がよっぽどアメリカに合ってる。こんな風に恋に苦しんで、涙を零して、あれほど嫌っていた元兄に縋りつくなど、らしくない。
ヒーローはいつでも強く、正しく、迷わず、後悔しない。こいつは人に迷惑をかけても、迷惑をかけられたり、振り回されるのには慣れていないんだ。強くありたいと願うからこそ、弱さと折り合いをつける術を知らない。
「あいつの記憶だけ消してやるよ。あいつと過ごした出来事を、誰かべつの奴に置き換えてやる。それでお前は傷つかない、これ以上苦しまないし、弱い自分を見なくていい」
「そうしたら、俺の呪いは解ける?」
「たぶんな……」
どこかの会議や街角のカフェで顔を合わしても、きっとそのまま何事もなくすれ違えるだろう。にはイギリスからうまく事情を話してやればいい。
こういう事は皆どこかで何かしらの形で体験する。もきっと理解して、それを受け入れてくれるだろう。
「そっか。完全に他人になれちゃえばきっと楽だよね」
「そうだな」
「俺はべつの恋人を作って、は今まで通り俺以外の何分の幾つかと楽しく過ごせばいい。それでハッピーエンド」
「ああ、めでたしめでたしだ」
「そっかぁ、めでたしかぁ」
笑いながら、アメリカの目からはぼろぼろと大粒の涙がこぼれ落ちていた。ハンカチを渡してやると、アメリカはごしごしと目元をぬぐい盛大に鼻をかんでからまるめてイギリスにつき返した。
全くこいつは、とイギリスは呆れてアメリカの頭をぽんぽんと撫でてやる。
「お前……昔、人魚姫のはなし好きだったよな。ハッピーエンドじゃないのにいつも聞きたがった」
「……そうだっけ?」
「そうだよ。ラストシーンで泣くくせに何度も何度も俺に強請った」
泡になって消えてしまう人魚姫。何度繰り返されても救われない物語。
「嘘だ……あれはハッピーエンドだったはずだよ」
アメリカの知るラストシーンは泡になって消えてしまう人魚姫を、王子様が救いにくるというものだ。あの時命を救ってくれたのは人魚姫だ、君が運命の人だった、と突如真実を知った王子が救いに来るお話。
「お前と一緒にカナダまで泣くから、髭が勝手に別の終わりを作ったんだよ。お前が『僕だったら絶対、人魚姫を見捨てない』って聞かないから」
だけどあの話には、実は語られていない物語の続きがあった。本当は王子様は人魚姫の恋した王子様ではなく別の王子様で、泡になりかけていた人魚姫にはそれが分からなかったのだと。
子どもたちが泣くから絶対にその続きは話すなと、当時のイギリスがフランスに強く釘を差したのだ。本人は別の誰かでも幸せになれる恋を教えてやりたかったのだと言っていたが、そんなものが子供に分かるはずがない。
だからあの話は、唐突に王子様が現れて唐突に終わる。泡になりかけていた人魚姫が、助かったのかどうかも語られずに。
「ふうん……それを聞いてたら、俺の恋愛観も少し変わってたのかな」
アメリカは呟いて、少しだけ恥ずかしげにはにかんでみせた。
「どうだかな。少なくともあんな話聞いたくらいで、お前が殊勝になるとは思えねぇな」
憎まれ口を叩けばアメリカは煩いんだぞ、とふくれっ面をして見せる。
と、
「あ」
目ざとくバーの入口に現れた東洋人の女性を見つけ、アメリカは思わず立ち上がった。
「ごめん、イギリス。俺、行かなきゃ」
ぬるくなったビールを喉の奥に流し込み、手短に告げる。イギリスが手をひらひらと振るのにすら一瞥もくれず、視線はずっとそちらの方へ向けている。
親しげに肩を抱くイタリア人やら、いつの間にかフェードアウトしていたフランス人を敵と捕捉し、まるで戦闘でもするかのようにベキベキと拳を鳴らす。
これで記憶を消したいだなんて言ったら、逆に自分は殴り飛ばしていただろう、とイギリスは思う。
と、
「イギリス。ありがとう……それと、ごめん。俺やっぱり……君にも負けたくないんだ、男として」
そう振り向かずに告げて、アメリカは戦車のように輪の中に突っ込んでいった。涙など忘れてしまったかのように、大きな声で笑い、自分勝手な事を宣う。
ああ、それでこそアメリカだ。天下無敵で傍若無人な彼の大国だ。
「元弟と腹割って話せた?」
いつの間に戻ってきたのか、フランスがカウンターに背を預け尋ねてきた。どうやらアメリカの暴走に巻き込まれたらしく、目元にかすり傷ができている。
「どこ行ってたんだよ、てめぇ」
「えぇ? 気を利かせてあげたんじゃない」
「どこがだ。こっちは気まずくて仕方なかったんだからな」
ふうんと呟きながら、によによといやらしい笑みを浮かべるフランス。その笑みにしかめっ面を作りつつ、ふとイギリスは疑問を口にする。
「そういやお前はいつも余裕そうな顔だよな」
「まぁね。愛の国だし。そこらのガキンチョに後れを取ったりしないよ。あの娘の何分の幾つかはお前やアメリカのものかもしれないけど、何分の幾つかはお兄さんのものだから」
「あー、そうかよ」
「でも、一度だけ昔ヒヤッとしたことあるんだよね」
「あ? いつ?」
イギリスの問いにフランスは意味深な笑みを送るだけだった。
お前にだけはナイショ、と憎まれ口を一つ送って ――――
誰かの蜜月の如き同盟が、誰かにとって茨のような苦悩の日々であったことを、イギリスは未だ表面的にしか理解していないのだ。
end
皆が皆”愛しい”と思ってるんだと思います。
愛しいは他にも”おしい”と読みますね。
日本語の愛って言葉は、失うことを恐れたり、手放したくないほど心が惹かれていく様の方が、
しっくりくる気がします。
相変わらず鬱々とした話で申し訳ないっす。