泥濘の海06
「ああ、いらっしゃいませ。下衆な英国紳士殿」
日本を離れる間際に菊に呼ばれ何事かと思いきや、開口一番八つ橋に包まぬ言葉の刃物がアーサーに向かって飛来した。
にこにこと微笑んでいるからこそ、菊の怒りが相当なものだと知ることが出来る。
孫娘を傷物にされた。それだけで怒り心頭であろうに、既成事実を盾にアーサーの上司が不平等条約をつきつけて来たのだから当然だろう。
「いや、まあ……なんつーか悪かった」
さすがに菊に対してまで強固な態度を取ることが出来ず、アーサーは素直に頭を下げる。
そんな態度を取られては、菊も無碍にする事など出来ない。
「悪いと思うのなら二度とあの子に近づかないで欲しいところですが、まあそういう訳にもいきませんね」
条約が締結されてしまえば、に拒むことなど出来はしない。菊はやれやれと肩をすくめると、言葉を続ける。
「まあ、開国した時に覚悟を決めていた事です。それにあの子はああ見えて強い子ですから、きっとアーサーさんの事なんて三日も経てば忘れるでしょう」
「お前、何気にヒドいコト言うな……」
やっぱり怒ってんじゃねぇか、とアーサーは胸中で呟きつつ、ふと疑問を口にする。
「なぁ……これからどうするんだ?」
「と、言うと?」
「あいつの事だよ……」
ああ、と菊は呟いて、どうにもならないでしょう、と返す。
「アメリカとイギリスが条約を締結したのです。今まで以上に熱心に条約を望む方が現れるでしょうね。次はフランシスさんか、イヴァンさんか……」
「まあ、そうだな」
日本を庇護下に置くことが出来ないのなら、こうなる事は必須。続々と異国の艦船が押し寄せ、その度にあの娘が足を開くのかと思うと、自分もその内の一人でありながら胸のあたりがむかむかした。
嫉妬など、感じる資格などないはずなのに。誰ひとりとして、そんな感情を抱く事など許されないはずなのに。
アルフレッドも、アーサーも、結局は国力を嵩に無理矢理にをものにした。同じ事を他の誰かがした所で、それに怒りを感じる事など許されない。
それを唯一許されるのは、が祖国と崇める菊だけなのだ。
「なぁ……聞いていいか?」
「なんでしょう」
「あいつはお前の、日本国の一部なんだろ? だったらどうして、あんな姿にしたんだ」
菊は少しだけ面食らった。滑稽な質問だったかもしれない。だが、それを一笑に付すことはせず、そうですねぇ、と呟く。
「私の自在というわけにはいきませんが、確かに少女ではなく少年の姿にさせる事は出来たかもしれませんね。まあ、たいして差がある事だとは思えませんが」
「あるだろう! お前、せめて男だったらあいつは……」
「そうですか? 仮に少年だったとしても、あなた方が手を抜いたとも思えませんよ。まあ、表現の違いと申しましょうか。結局はそうなっていた……さらに背徳的な絵面になっていただけです」
アーサーは反論の言葉を口に仕掛け、それを悔しげに飲み込んだ。
国の概念など、結局は現象に過ぎない。その見てくれが女だろうが、男だろうが、開国や不平等条約が無くなることなどあり得ない。
それに、と菊は独り言を言うように呟く。
「その方が愛らしいでしょう?」
にこり、と微笑んで。
一瞬、彼が何を言っているのかわからず、アーサーは眉根をしかめる。
「あなたも国ならばお分かりのはずです。国の一部という事は、私の家族も同じ。私はあの子が可愛くて可愛くて仕方がない」
アーサーは益々顔をしかめた。
菊がを溺愛している事など、誰だって知っている。可愛い孫娘ですと。事あるごとにまるで惚気のように言ってのけるのだから。
だが、あくまでそれは家族だから。同じ家にずっと共に暮らしていたからだと、そう理解していた。
なのに、何故だろう。柔らかな笑みを浮べているのに、菊から何か不穏な空気を感じるのは。
「あの子はね、私のためならばどんな事でもしてくれるのです。それこそ赤毛の洋人に身体を穢される事さえ厭わない。それで私が強くなるのなら、犬に噛まれた程度にしか思わぬのですよ」
「お前……爺の近親相姦とか笑えねぇぞ?」
「近親相姦? 穢らわしい。私はあの子にとって男ではなく爺ですよ。あの子を抱きしめて、慰めてやるのが私の役割……いえ、特権なんです。穢すのも傷つけるのも貴方達。貴方達はあの子の涙を見る事すら出来ないのです」
ぞくりと、アーサーの背筋が震える。まるで強国を相手にした時のような、武者震いのような悪寒。
極東の小国と侮っていたが、重ねた歴史は伊達ではない。こいつは化け物だ。本物の鬼畜だと本能が告げる。
「さぞや虚しい思いをしたでしょう。甘い口づけも、残酷な抱擁も、あの子の心には届かぬのですから。退いてくださっても構わないのですよ? あの子が欲しい殿方など、星の数ほどいるのですから」
「お前……それでも日本男子か」
はははっと菊は、口を開いて笑った。
嘲るような、見下すような、完全な勝者の顔で言い放つ。
「日本男子なれこそばです。私のものに手を出そうだなんて百年早いのですよ、小僧共が」
アーサーはふらりと立ち上がった。
自分は決して紳士などではない。虫唾が走ると称される事も、自ら手を汚すことも数多くして来た。
だが、この男は本当にーーー
「ネクタイを締め直して一昨日来やがり下さい。英国紳士殿」
日本男児を名乗るその男は、花のような柔らかな笑みで毒を吐いたのだった。
end
色々すみません。
一話のピュアな爺ちゃんはどこにいった!