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泥濘の海03





 アメリカ人は約束をキスに代えて頬に口付けた。イギリス人は紳士らしく膝をつき、手の甲へ唇を寄せた。フランス人はキザったらしく瞼にキスを落とし、ロシア人は照れたように投げキッスを、オランダ人は慣れたそぶりで額にキスをした。
 キスが一つ落とされるたび、の身体に枷がはめられる。条約と呼ばれる重い鎖が、幾重にも身体を縛り付けて毒のように蝕む。
「こっちの歴史じゃアンセーの五箇条って言うんだってよー。変だよね、他にも条約を結んだ国はたくさんいるのにさ」
「なんで俺たちが入ってないんだよ、このやろー」
「気に入らないね、兄ちゃん」
「ああ、全くだぜ」
 シャンデリアの光が輝くダンスホールを、二人のイタリア人が遠目に眺めている。
 一人は分かりやすいほど不機嫌な顔で、黒髪の少女がどこぞの西洋人と踊るのを眺めている。もう一人は顔こそ微笑んでいるものの、細めた瞳でじっと少女だけを見つめている。少女の手を取る男など、元からこの世に存在しないとでも言うように視界から切り離す。
「邪魔だね、アイツ」
 フェリシアーノの手が懐に伸びるのを察し、ロヴィーノはわずかに眉根をひそめる。弟は愛想笑が多いくせに、沸点も低く拳銃の引き金も軽い。
「やめろ、馬鹿弟。に返り血でも飛んだらどーすんだ、このやろ」
 の名を出すと、フェリシアーノはへらりと笑った。
「あっは、そうだね。じゃあ、今はやめとくよー」
 そして機嫌良さそうに鼻歌を口ずさみ始める。"今は"をあえて無視して、ロヴィーノは視線を辺りに巡らせた。
 よく見ればダンスホールの至る所から、似たような視線が二人を追いかけている。わざわざフェリシアーノが始末しなくても、他の誰かがやってくれるかもしれない。それで潰しあってくれれば尚良しだ。
 そんな事をぼんやり考えていると、上機嫌に鼻歌を歌っていたフェリシアーノがロヴィーノを呼んだ。
「ねえ、兄ちゃん。今回のプレゼントもに喜んでもらえるかなー?」
「俺が選んだんだから当たり前だろ。喜ばなかったらお前のせいだからな」
「えー、ヒドいよ。俺だって選んだのに」
 そう言いつつも、どんな物を贈ってもきっとは喜んでくれると二人は確信していた。高価な贈り物に恐縮しながら、ありがとうございますとすみませんを繰り返し、微笑んでそれを受け取ってくれる。
『ありがとうございます。大切にしますね』
 いつもお返しと言って色々とお土産を持たせてくれるが、その一言だけで十分だった。それだけで心が満たされる。二人が贈った物をが持ち続けてくれるだけで、ほんのわずかでも彼女のプライベートに踏み入れたような気がして嬉しくなってしまうのだ。
 でも本当はもっと中に踏み込みたい。国というのは人間以上に欲深くて、ただ仲がいいだけでは満たされないのだ。本能的に国土や国益を増やしたいからと言ってしまえばそれまでだが、人間が一生に抱く感情などとは比べ物にならないほどの深く途方もない欲望を抱いている。
 貪欲で、狂おしく、情熱的で、独裁的。
 相手の民も、思想も、宗教も、政治も、何もかも埋め尽くして塗りつぶしたくなるような、そんな心地。
「喧嘩したいわけじゃないよ。と戦争なんかやだしさー。でも、俺もっともっと仲良くなりたいんだ。他の奴らより誰より、の一番になりたい」
 こういう時のフェリシアーノは決して引かない。普段ヘタレで通っているのは、本気を出す相手が限られているからだ。本気を出した時のフェリシアーノの恐ろしさは、兄のロヴィーノがよく知っている。そして兄もまたそれを止めない。むしろ面白がって拍車をかける。
「シチリア島にでも攫っちまうか」
「ダメだよ、兄ちゃん。それじゃあ兄ちゃんばっかり側にいてズルいよ。フィレンツェにしようよー」
「それじゃあ、お前がズルいだろ。公平に半分にしやがれ、ちくしょー」
 兄は不機嫌な顔で、弟は愉快そうな顔で、だが二人はひどく楽しげに話す。もしそんな事が出来てしまったらどうしよう。イタリア半島に閉じ込めて、絶対に外に出さず他の誰にも会わせず、大事に大事にするのに。
 と条約を結んだ世界中の国を叩き潰し、自分だけが彼女を独占できたらどんなにいいだろうか。他国との条約の痕をすべて新しいキスマークで塗り潰し、あの白く滑らかな身体を独り占め出来たら。
 どんなに愛を囁いても、どんなに熱烈に迫ってもは決して首を縦に振らない。自分は特別な誰かを選べない、誰か一人に操を立てることは出来ないから、と。
 菊の孫娘だけあって、律儀で頭が固いなと思う。そんな事をわざわざ思い悩む必要などないのに。彼女は国の外交を司る部分なのだから、どこか特別な一国だけを選べないなど理解している。そうではなくただ日本という国とは別に、彼女が個人的に好きになってくれさえすればいいのに、それさえ不誠実だと彼女は考えてしまう。
 その頑なな態度が、自分の気持ちなど何もなく、ただ菊のためだけに働いていると言っているようで嫌だった。菊も上司も関係なく、ただ個人が好きでいてくれればいいのに、彼女が自分を日本という国から切り離せないように、ヴァルガス兄弟のこともイタリアという国とは別に考える事が出来ないのだ。
 もどかしくて仕方が無い。だが、その融通の利かない真っ直ぐな所も好きだからどうしようもない。
 嗚呼、本当に ―――― 彼女を取り巻くすべての物が潰れてしまえばいいのに。
 ちろり、とフェリシアーノが舌舐めずりをした。
 微笑みながら悪い顔。
「欲情してんじゃねーよ、馬鹿弟」
 フェリシアーノはふふっと微笑むと、同じように切り返す。
「兄ちゃんこそ勃ってるんじゃないの?」



end


悪い顔のくるん兄弟。
イタリア男は嫉妬深いと聞いたので、つい出来心です。