「おや、あなたがこんな場にお越しになるとは珍しい」
「なにが珍しいあるか、自分でこんなもの寄越しておいて」
男は金の菊紋の入った白い封筒を菊の手の中に押し込む。菊は顔を上げ、男に向かって微笑む。
慣れぬ洋装。疲労の影の消えない顔。若い顔をしているが、どちらも爺だ。
「お久しぶりです、王耀さん」
泥濘の海
「我はおめーの招待を受けてやったわけじゃないある、おめーに文句言いに来たある!」
そう啖呵を切りつつ、手にした皿には山盛りの西洋料理が積まれていた。指摘すれば行き掛けの駄賃とでも答えるだろう。それを想像して菊は再び破顔した。
「何ある、ニヤニヤして気持ち悪いヤツある」
「いえ、すみません……それで私に文句がおありなのでしょう?」
叱られるなら早い方がいい。切り出すと王耀はビフテキに箸を突き刺しつつ、眉をしかめてダンスホールの方に目をやった。
欧米の紳士淑女に交じって、黒髪の少女がワルツを踊っている。絹で作ったドレスだが、柄が和風なのでどこか浮いている。
「孫娘にあんな事させて、恥ずかしくないあるか」
「……あんな事とは?」
素直に叱られるつもりだったが、こんな風にのらりくらりと除けてしまうもはもはや習慣だった。この人にこんな外交は通用しないのに、と自分の背丈に合わぬ近代化を自嘲的に笑う。
「まったく滑稽ある。が可哀想よ」
王耀は不機嫌そうに皿の上に再び箸を突き刺した。
「着せるなら我のとこに旗袍の方がいいね。全然似合ってないある」
「そうですか」
「ダンスも下手くそある。あれじゃ格好の笑の的ある」
「そうですか……」
これでもいい教師をつけたつもりだが、やはり外の目からは滑稽に映るのか。
否、王耀が責めているのはそんな事ではない。
ぐだぐだと続いていた王耀の文句が中断したと思いきや、王耀の視線の先では若いイタリア男がを口説いているところだった。どこからか現れたドイツ人がそれを叱り、その隙にフランス人が手を取ろうとしてイギリス人の妨害にあっている。その間にオランダがちゃっかり隣りに居座り、もう一方はロシア人が圧倒的な威圧感で誰も寄せ付けない。だが空気を読まず、アメリカの青年がの手を強引に取る。
そんな構図を王耀は刺すような視線で見つめていた。
「該死的」
ぽつりと、短く呟く呪いの言葉に、すべての想いが詰まっていた。
もしかしたらその言葉は、菊自身に向けられたものかもしれない。
「色香で国を落とすなんて、いつの時代のはなしある。おめー覇王別姫とか三国演義の読みすぎある」
「まさか。傾国は人の男性を惑わすものですよ。それに彼らは紳士ですから、を構って下さっているだけです」
「どこが紳士ある。あいつらだってを手篭めにして、美味しいとこ奪いたいだけある」
「はは、まさかそんな……」
「……」
王耀は重い沈黙で菊を責めた。それも菊は知らぬ顔をする。
わかっています。わかっていますとも。ですが、私に他に選び用がありましょうか ――――
『おじいさま、にお任せください! きっと……きっと日本国をどこにも負けぬ強国にしてみせます!』
無理やり開港させられた孫娘が、涙を堪えて訴えるのを、どう諌めれば良かったのでしょうか ――――
私が弱いから。私に力がないから。
あの子に涙を、血を、流させてしまったのなら……
「そんなに強くなりたいあるか?」
「……はい」
菊は袖で顔を覆い、涙を悟られぬように深く深くため息を漏らした。
釣られたように、王耀もまた短く息を漏らす。
「ま、そうあるな。孫に激甘のおめーが、若い男に色目使われて怒らないなんてよっぽどある」
「……はい」
顔を覆ったまま、力なく頷く菊をもはや責める気にはなれなかった。
もう片方の手が不自然に腰の辺りに伸びていることに怪訝に思い、正体を確かめて王耀は思わず苦笑を漏らす。
「菊。刀は柄に触れるだけにするよろし」
end
刀を抜くにはまだ力が足りない。
でも、王耀さんもちゃっかりとダンス踊ってればいいと思う。
「我はがこんなちっせー時から知り合いある! 小僧どもとは別格ある!」