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 その時俺は、君の成長を少しだけ悲しく感じた。



俺だけの君でいて





「まったく日本はだから困るよ」
 珍しく愚痴るような声音で、アルフレッドは呟いた。注がれたビールの杯を傾けてぼやく様は、金曜の夜に居酒屋にたむろするサラリーマンのようだ。大きな違いとして、ここは日本で彼の体格の良い身体や、輝く金髪は外国人の多い六本木のバーでも浮いているという事だった。
「俺が君たちの成長に驚かされるのはこれで二度目だよ」
 一度目はおそらく開国数年で列強諸国と肩を並べて見せたこと、そして二度目は高度経済成長と呼ばれるこの急成長だ。いつかアメリカは日本に買われてしまうんじゃないかと、実は半分ジョークではなく本気で考えている。アルフレッドにとっては日本の急成長は驚愕すると共に、驚異である。
 にこにこと微笑みながら静かに酌をするを横目でちらりと見やり、ねえと少し低い声で囁く。
「俺はこういう時、本当はあの扉を開けるべきじゃなかったんじゃないかって思うよ」
「あの扉?」
 冷えたビール瓶を手にしたまま、は小首を傾げる。
「ほら……あったじゃないか。君の隠れ家だよ。竹林の中に建ってたあのボロ屋の」
「庵と言って下さいな」
 くすくすと笑みを零しながら、はアルフレッドの手にしたコップに小麦色のビールを並々とついだ。日本人の特にサラリーマンという部類の得意な、泡と液体の比率を計算し零さないぎりぎりの所まで注ぐ、あの不可思議でかつ無意味なようなスキルでアルフレッドのコップを満たす。
「日本のワビサビは理解不能なんだぞ。とにかくあのボロ屋のさ、奥にあったじゃないか。何年も開いていないって扉が」
 ああ、と呟いて、はわずかに目を細めて見せた。
 アルフレッドは扉と言ったが、正しくは襖である。海と富士山を描いた襖はあの頃すでに何百年も閉じられたままだった。
「俺はあの時の事を少しだけ後悔するよ」
 はにこにこと微笑んで、だが何も言いはしなかった。
 すべては遠い過去のこと。今アルフレッドが過去を悔いたとしても、実際にあの扉は開かれて日本は開国した。閉じていた港を開港し、他国の船を迎え入れ、そして自らも外の世界へと向かった。
 あれがきっと、歴史の分岐点。
「最初はたどたどしかった英語を綺麗な発音で喋るようになった時。ワルツを上手に踊れるようになった時。着物よりドレスの方がイケてるって感じた時。キスが上手くなった時。俺はその度、後悔したんだぞ」
「アルフレッドさん!」
 恥ずかしそうにが制止の意を込めて名を呼んだが、返ってきたのは思いのほか真剣な彼の視線だった。
「本当だよ」
 の髪を一房手に取り、唇を寄せる。
「この髪はあの瞬間まで俺だけのものだった」
 扉を開けるまで。世界と日本を繋ぐまで。
 あの外界から切り離された庵では、世界は二人だけだった。
「あの、それは……」
 言いかけたの言葉を、真っ直ぐな視線で黙らせる。どうか言葉にしないでと訴えるように。
 どれだけ多くの国が日本との外交を望んでいたのか、開国後の条約の多さを見れば一目瞭然。きっとあの庵を訪ねていたのは自分ひとりではなかったはずだ。
 だが、あの場所にいる間だけは二人ぼっちで、他の何者も介入する隙間などなかった。
 世界は閉じられていたのだから。
 他の男も、他の国もアルフレッドの目の前には現れない。他の誰かと楽しそうに談笑するの姿を、ずっと知らずにいられたのだ。
「成長なんてさせないで、ずっと閉じ込めておけば良かったかな?」
 あの閉じられた世界で、俺だけを知っていて、俺だけを映すその目を愛し続けていたら ―――― 後悔はなかった?
「あ……はは、は」
 髪に口付けたままじっと注がれた視線を冗談にしようと、はへらりと笑って見せた。
 日本人はよく笑う。何かを誤魔化したい時、何かを流してしまいたい時。Noと言わず、ただ眉根を寄せて困ったように笑う。
 アルフレッドはその笑みが嫌いだったが、それが彼らの処世術であり、その笑みを自分がさせてしまっている事実を無視するほど横暴であるつもりもなかった。
 するりと髪を離し、笑ってみせる。いつもの屈託無い笑顔で、
「冗談だよ。ただのアメリカン・ジョークさ」



end


バブル辺りのイケイケだった頃のお話。
俺が連れ出したのに、とか拗ねてるとイイ。