とある天国から
「来ちゃった」
と、極上の笑顔で。
ひらひらと手を振ったに、半兵衛は唖然とした。
「えっ、うそ、までこっち来ちゃったの? 早くない?」
自分と同じ死人の証である白い死装束姿を纏い、はとても死んだとは思えぬ明るさで半兵衛の前に現れた。
「頑張ったんですけどねー、病をこじらせてコロリと」
逝ってしまったのだと言う。
にこにこと笑うさまは生前とまったく変わりがないが、ここにいるという事は明らかに死者である。元より幽鬼のように白かった肌は、今は死者に相応しき青白さで、死んで尚も病弱な風貌を発揮していた。
「あーあ、せっかく俺が連れていくのを断念したのに、自分で来ちゃうなんて」
「ん? 何の話です?」
「ああ、いいのいいの。こっちの話」
それは半兵衛が死ぬ時に密かに思ったこと。このまま悪霊になって取り殺してしまおうか。そんな邪な事を考えた。
このまま自分はの命が果てるまで、が色々な男に口説かれる様や抱かれる様を見続けなければならないのか。そう思ったら、嫉妬の炎で狂いそうになってしまった。
だが、それはすべて空言になって、半兵衛は光になって見守る道を選んだ。
を取り上げてしまったら、官兵衛は独りぼっちだ。あの広い背中が寂しそうにたたずむのを見るのは、なんだか忍びない。
しかし――――
「あーあ、官兵衛殿かわいそ〜。今頃、猫と二人ぼっちだよ」
実際にはは一二年でこちら側の人間となり、取り残された官兵衛はの置いてきた猫と取り残される形となった。
三人で過ごした執務室は、さぞやがらんとして物悲しいだろう。
「官兵衛様……悲しんでくださるでしょうか? 私、お葬式もそこそこに、あんまり相手にされなかったぽいんですが」
死者に捕らわれるのは時間の無駄だと、食いかかった清正にそう告げるのを聞いた。
少し悲しかったが、官兵衛らしくて逆には笑ってしまった。
そう。それでいい。死んだ人間のために、足を止める必要なんてない。
「は分かってないなぁ。官兵衛殿は極度の照れ屋さんなんだから、そんな人目につくようなところで、悲しんだりしないんだよ」
そういうものでしょうか? とが小首を傾げると、そうだよ! と半兵衛が強く肯定した。
そして、ぱちんと指を鳴らすと、
「それじゃ、幽霊初心者のに、見せてあげようか。下界の様子がよく見えるよ」
の手を引いて、雲の合間から下を見下ろす。
まるで視界が落下するように幾重もの雲を突き抜けて、眼前に懐かしい屋敷の情景が広がる。執務室の天井を突き抜けると、そこには誰もいなかった。
「あっれ、別の所かな」
視界を別の方角へ向けると、官兵衛の広い背中が映った。手に書物を何冊か持ち、足元には白猫がじゃれつくようにしながら、その後を付いて行く。
「どこに行くんだろう?」
白猫の後ろに続くように、二人もその後を追った。
庭を突き抜けて、木を押しのけて、ずいぶん遠出をするものだと訝しみ始めた頃、官兵衛の足がようやくぴたりと止まった。
「あ――――」
目を見開いたの唇から、わずかに声が漏れた。
椿の木々に囲まれた場所に、真新しい石柱がそびえている。忘れるはずがない。の墓だ。
官兵衛は墓石に落ちた木の葉を無造作に払うと、その上に手にした書物を置いた。それには『六韜』と『呉子』と表紙に名がついていた。
花ではなく、兵書をそなえるなんて、なんとも官兵衛らしい。
「そんなの……死んでから、兵法を学んだって仕方ないのに」
それでもの好きなものといえば、そのくらいしか知らなかったのだろう。年頃の娘に何を渡せば喜ぶのかなど、官兵衛が知るはずがないのだから。
「不出来な弟子め」
官兵衛がぽつりと、呟いた。
鬼の手がすうと頭上に現れ、手の平をぱっと開いた。椿の赤い花弁が頭上に舞い散り、無骨な墓石を彩る。
死者に手向ける花など知らない。だから、切花ではなく花弁をささげる。
「お前は赤がよく似合う。もっとも――――いつも花より団子だったがな」
無表情の官兵衛の顔が、わずかに笑んだ気がした。
共に過ごしたものだけに分かる、わずかな心の機微。
は顔を覆って、肩を震わせた。
「泣いちゃ駄目だよ。官兵衛殿が雨で濡れちゃう」
の涙に呼応するように、下界ではぽつりぽつりと雨が降り出した。
泣いてはいけないと分かっている。死者が生者を引き止めるような事をしてはいけないから――――
「かんべ……さまっ、……ごめ……なさい……ごめん、なさい……」
ずっと自分は置いていかれる方が辛いとばかり思っていた。だけど、本当は置いていく方も、こんなにも辛いのだ。届かないとわかっているのに、留まってはいけないと知っているのに、生きている人々の心にいつまでも残り続ける。
「大丈夫だよ、。いつか官兵衛殿もこっちに来るんだから、そしたらいつもみたいにたくさん軍略の話しよう。それまで二人で官兵衛殿のこと見守っていよう?」
は涙でくしゃくしゃになった顔をこすりながら、こくこくと何度も頷いた。
悠久の時を漂う死者にとって人の生など一瞬なのだから、きっと三人がまた邂逅する日も遠くあるまい。
それまでは、どうか官兵衛の行く先に幸あらんことを――――
end
「蛍」の続き、ヒロインの死後です。
半兵衛に死なれ、ヒロインまで先に逝ってしまい、猫と二人ボッチな官兵衛。
でも、官兵衛は余計な感傷とかはしないので、
独自の悼み方で死者との線引きはきちんとできていると思う。
なので、むしろ捕われているのは死者たちの方かもしれない。