秀吉の晩年の豊臣家の話です。
秀吉が耄碌、一家がばらばらになりつつあります。
全体的に悲しいテイストの話なので、それでも許せる方のみお進みください。
残像
「茶々はまだか!」
怒号ともつかぬ秀吉の声が、大阪城の一室に響き渡る。側室である淀殿が一向に現れず、業を煮やしているのだ。
家臣や侍女がばたばたと大慌てで城の中を駆けていく中、赤い内掛けを纏った女がゆっくりとした足取りで天守へと向かっていく。
「おい」
見張りの男が女を呼び止めた。
娘のような年若いかんばせが振り返る。
何者だ、と口にしかけてもう一人の見張りがそれを制した。
「この方は、」
言いかけて、はっと娘の顔に気付くと、見張り共はすぐさま床に張り付き、額を擦り付けんほどの勢いで頭を下げた。
幽鬼のように白いかんばせに、煌々と宿る碧の双眸。頬と唇がうっすらと桜色に色づいていなければ、妖かしの類とまごうばかりの姿である。
娘は叩頭する見張り達を一瞥すると、そのまま音も立てずにその場を通り過ぎた。
十分に娘が離れたのを確認してから、見張りの一人がふうと吐息を放つ。
「まさか、こちらにおいでになるとは」
秀吉に散々催促されても、なかなか足を運ばなかったのに、何を思って今日は現れたのか。
秀吉の命に背いて怒りを買わぬ人間は多くない。
家臣の中には、この娘の事を密かに秀吉の寵姫なのではと訝るものがいたが、その出自や来歴ははっきりしない。聞けば、かつて両兵衛と称されし、竹中半兵衛と黒田官兵衛に師事した軍師の一人であるらしいが、あのような娘が戦場に立てるはずがないと信じる者は少なかった。
そもそもそうであれば、歳の頃はすでに中年に達しているはずである。にもかかわらず、女は娘のような顔をしている。歳を取らぬというならば、それこそ女は妖かしに違いない。
とにかく関わらない方が身のためだと、二人は何食わぬ顔で見張りを続けた。
襖を開くと、遅い! と怒号と共に金の扇子が投げつけられて来た。
それを掴み取り、座敷の中の人物に目をやると、初老の男は不機嫌を顔中に貼り付けたような顔で、脇息にもたれかかっていた。
「いつまでわしを待たせるんじゃ! 呼んだらすぐ来んか!」
と、こちらを見ぬまま、怒声を張り上げる。
娘は無言のまま室内に歩を進めると、男の前に膝をついた。
「秀吉様」
娘の凛とした声に、秀吉ははっと顔を上げる。茶々のものではない、懐かしい声に目を見開いて娘の顔を見た。
「! よう来た! 近う、もっと近う!」
秀吉は歓喜の声を上げると、大げさに手を振って手招きをした。
は秀吉の眼前まで膝を進めると、両膝の前に手をついて深々と頭を下げた。
「太閤殿下におかれましては、ご機嫌も麗しく――――」
「ああ、ええ! 堅苦しい挨拶はなしじゃ、なしじゃ!」
のおとないがよっぽど嬉しかったのか、秀吉は手を叩くと、侍女に南蛮の菓子と一番良い茶を持って来いと命じた。
「は南蛮の菓子が好きじゃったからの〜。金平糖がいいか、それともかすてーらか」
「秀吉様、もう子供ではありません」
苦笑を浮かべたに、ええんさ、ええんさ! と声をかけて、秀吉は上機嫌で笑い声を上げた。
最近、機嫌の悪い秀吉がこのように上機嫌になるのは珍しく、侍女達は驚きつつも二人の前に菓子と茶を運んだ。秀吉の前に座るのが、城中でも有名な謎の姫である事に気付き、ますます目を丸くするが、ににこりと微笑まれるとはっと気付いて、慌てて退出した。
そんな侍女の様子が可笑しかったのか、秀吉はくっくっと忍び笑いを上げる。
「ありゃあ、しばらくは噂になるじゃろ。妖しの君が日の当たる場所に出てきたっちゅうて」
「妖しの君、ですか」
変な渾名が付いたものだと、は複雑そうな表情を作った。
めったに部屋から出ないせいか、城内であってもの事を幽霊か何かだとでも思っている人間がいる。紅い内掛けを纏った姫が、夜な夜な城の中を歩き回ると怪談にまでなっているほどだ。
説明するならば、体の弱いにとって日の光は毒気が強く、夜の方が動きやすいというだけなのだが、余人はそのような事は知らないため、噂が一人歩きするのだった。
「わしの所に来んで部屋に引きこもってばかりおるから、そういう噂がたつんさ」
と、恨み言とも愚痴とも付かぬ言葉を呟いて、秀吉はずずっと茶をすすった。
だが、瞳は優しげで心配げにの顔を見やる。
「また痩せたか?」
の細い手を取って、血脈の浮き出しそうに白い甲をさする。
「顔色もようない。京から呼んださじは駄目か。もっと名医を探させて、加持師ももっと多く、」
秀吉の言葉を遮る様に、は淡い笑みを浮かべて、大丈夫ですと答える。
「御匙様は良くして下さいます。私のような奇病持ちを相手に、根気良く診てくださいます」
「奇病って、おみゃあ……」
確かにの病は病と呼ぶには常人離れしている。
瞳の色がどんどん薄くなっていくのだ。それと共に視力が弱まり、身体の節々が力を失う。今では鳶色の瞳は翡翠をはめ込んだように碧に輝き、千里眼と裸眼の境界が曖昧になっていた。目の前にあるものが思うように見えず、どこか遠くの風景を視界に広げるのである。
「養生せえ。わしより先に逝くんじゃないぞ」
そう言って手をさする秀吉の顔は優しげだった。
なぜ、この人が――――
と、は胸中で呟く。
そして、秀吉の前に手を付くと、深々と頭を下げた。
「今日は秀吉様にお願いがあって参りました」
秀吉はほう、と片眉を上げたが、なおも上機嫌だった。懐から扇子を取り出しぱっと開いてみせる。
「なんじゃ、なんじゃ。何でも言うてみい。可愛いの頼みなら、何でも聞いてやる」
何せわしは、おみゃあのとと様だからな――――
秀吉の冗談で口にした「とと様」という言葉が、の胸に突き刺さった。確かに育ての親ではあるが、正確にはは秀吉の養女ではない。その誘いを断り、他の子飼いの将と同じく臣下の形を取ったのである。
もしあの時、が秀吉とねねの子となっていれば、違う未来があったのではないかとは思う。
今のように不安定な土台の上に、大阪城という家が建つこともなかったのではないか、と。
は顔を上げると、真っ直ぐに秀吉を見詰めた。
そして、
「今日はお暇をいただきたく参りました」
その瞬間、秀吉の顔からすうと氷が解けるように、笑みが失せて行った。
end
これから三成、清正、官兵衛が出てきます。