「残像」シリーズの外伝、秀吉サイドの話です。
「残像」「残響」「残月」のネタバレがあるので、未読の方は先にそちらをお読み下さい。
全体的に悲しいテイストの話なので、それでも許せる方のみお進みください。
残桜
人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり――――
かつて信長の好んだ敦盛が、秀吉の口から自ずと零れ落ちた。
西の空に傾く残月を眺めていると、自然とそんな厭世した気分になる。
手にした朱い盃にはなみなみと清酒が注がれているのに一向に酔わない。むしろ、飲めば飲むほど冴えていくようだ。
金箔で塗り固めた天守閣の月見台から眺める世界は、どこまで行っても自分のものだというのに、何故か空しさがある。
あの沈む事を禁じられた残月さえ、いまや自分の膝元に繋ぎとめているというのに、何故こんなにも心は沈むのだろう。この国の富と力、財と雅、全てのものを手にしたというのに、なぜ満たされないのだ。
ちらちらと散る桜の花びらが盃に浮かぶ。秀吉はその上に月の姿を映し、花も月も酒と共に一気に飲み干した。
「春過ぎの桜に残んの月。酒の肴には贅沢ですね」
そんな軽口が頭上から降りてくる。
ゆるゆると顔を上げると、目の前にはあどけない顔をした青年の姿があった。とっくのとうに青年などと呼べる歳は越えているはずなのに、彼は今も若々しい姿で秀吉の前に現れる。
否――――それは彼の時間が止まっているからだ。
歳を重ねた彼の姿を秀吉は知らない。
あの夏――――中国攻めの陣中で死した彼は、その瞬間、永久に時を留めたのだ。
「半兵衛」
名を呼ぶと半兵衛は、半透明の虚ろな姿のまま秀吉の前に腰を下ろした。
両足を投げ出した、だらしのない格好。半兵衛らしい姿だが、今や太閤となった自分の前で、こんな姿を晒す者はいない。それが嬉しくもあり、また寂しくもあった。
「秀吉様、どう? 天下を獲った気分は」
人懐っこい、猫のような目が秀吉に向く。
「……悪くない気分じゃな」
盃の酒を仰ぎ飲んで、半兵衛はそう、と目を細める。
志半ばで倒れた半兵衛にとって、本来であれば自分こそが秀吉の軍師となり、この天下を実現したかった事だろう。だがそれは叶わず、半兵衛のいない世界で、秀吉はこうして天下を手に入れた。
それが彼の信じていた皆が笑って暮らせる世や、半兵衛の寝て暮らせる世なのかは分からない。だが、仮にそうでなかったとてもはやそれを口にするのは、覆水を盆に返すようなものである。
「思い通りにならんものも、傅かん者も居らん。まさに天下は我が手中じゃな」
はっはっと笑い声を上げて見せたが、半兵衛はそれには乗って来なかった。湖面のような静かな瞳が秀吉を見る。
「でも……だったら、どうしてそんな顔をしているわけ?」
やはり半兵衛の目は誤魔化せない。秀吉の築き上げた天下が砂上の楼閣である事を、半兵衛は知っている。
「俺は悔しいよ。もし俺が生きていたら、秀吉様にこんな……」
俯いて黙り込んでしまった半兵衛に、秀吉は優しく、ええんじゃ、と告げた。
「わしは別に後悔はしとらんのさ。思い描いたようにうまくは出来んかったかもしれん。じゃが……これで良かったんさ」
そう呟いた秀吉の顔には、半兵衛の死後もこの乱世を行きぬいたもののふの生き様が、深い皺となって刻まれていた。
半兵衛はまだ何か言いたげな顔をしていたが、やがて分かったと呟いて顔を上げた。
「それで……わしに何か用なんか? 亡霊っちゅうても、ほいほい人前に出て来れるもんでもないじゃろ」
半兵衛の姿は秀吉の記憶の中の彼のままだが、その身体は実体がなく、空気に漂うように揺れている。秀吉は亡霊と呼んだが、怨恨や悔恨で残された魂と言うわけではないだろう。むしろこれは、彼岸からの遣いとでも呼ぶべきか――――
「か」
彼が生前、気にかけていた娘の名を挙げると、半兵衛はこくりと首を頷かせた。
何故かこの城にいると、皆一様にの姿を探しに来る。
官兵衛然り、三成然り、そしてついには半兵衛までもあの世からを探しに来た。
秀吉はふうとため息を付いた。
皆いったい何を見ている。いったい何処を探している。
「何を言っとるんじゃ。は――――ほら、そこに居るじゃろ」
顎先で月見台の端をしゃくってみせる。
そこには――――残月の光を受け、残桜の花びらを受けながら、琴を奏でる少女の姿があった。
紅い内掛けが白い肌によく映える。秀吉が下賜したものだ。
子安貝の欠片をあしらった琴も、秀吉が特別に京の職人に作らせた。
の黒髪を飾る簪も、頬を彩る紅も――――皆、秀吉が与えたものだ。どんな姫君にも負けないような、煌びやかで美しいものを手ずから選んだ。大切な、可愛い娘への贈り物。
だが――――
「俺には見えないよ」
のいる月見台の先を見つめ、半兵衛は悲しげに首を振る。
「秀吉様。死者は夢を見ないんだ」
その瞬間、の姿はまるで空気に溶けるように霧散した。琴の音色も、着物から香る香も夢のように消える。
あとにはただ――――残るは白夜の月と、遅咲きの桜のみ。
「秀吉様、教えてよ……。は――――いつから死んでいたの?」
秀吉は静かに瞑目し、唇の先を盃の清酒で濡らした。
「あれに会ったのか?」
地下に住まう、あの幻想に。
半兵衛は首を横に振る。
「ううん。俺は見てない――――いや、会えないんだよ。俺はもう夢を見る事はないから、みんなと同じようにの幻を見る事は出来ないんだ」
秀吉の作り上げた、あの呪術は半兵衛には効かない。
だからこそ、幻も真実も見る事が出来ないのだ。
あの囲い閨の中に封じられたものが何なのか――――半兵衛は知ることが出来ない。
「なら、なんでが死んどると思うんじゃ。確かにそこに居たのは幻だが……生きているかもしれんじゃろ?」
地下室でひっそりと。外界から乖離された世界で。
だが、半兵衛はやはり首を横に振る。
「死んでいるよ。確かに俺には確かめようがないけれど、俺はもう……は生きていないと思う。それも、かなり早い時期から、本当は死んでしまっていたんじゃないかって思うんだ」
「ほう……?」
「教えてよ、秀吉様。はいつから死んでいたの? 信長が死んだ時から? 秀吉様が天下を獲った時から? それとも、本当はもっと前に、俺が知っているも――――」
本当は、幻だった……?
半兵衛の大きな瞳が真っ直ぐに秀吉を見つめている。
死者のくせになんと活力に満ちた必死な目をするのだろう。これでは自分の方が死んでいるようではないか。そんな事を、窪んだ目で半兵衛を見返しながら思う。
「わしも老いたもんじゃな……」
盃に映る自分の憔悴しきった顔を眺め、秀吉はくしゃりと顔を丸めて笑った。
「半兵衛。もう、ええじゃろ。全部全部、過ぎたことじゃ」
「秀吉様!」
「わしは老い、お前ももう死んだんじゃ。現世も過去も、もうどうでもええじゃろう」
「でも……っ!」
「半兵衛」
まだ何か言いたげな半兵衛を、秀吉は彼の名を呼び制した。
主と臣の関係だったが、秀吉は友のように感じていた。まるで劉備が孔明を得るように再三彼の庵を尋ねて幕下に請い、どんな事も相談し頼りにしていた。
ここまでこれたのは、半兵衛のおかげといっても過言ではない。
だからこそ、恩人にこんな事を言うのは辛い。
だが――――彼はもう死んでいる。
言うなれば彼も幻だ。その姿は残像であり、その声は残響であり、残月と残桜に彩られたこのわずかな時間にしか具現する事が出来ない夢幻。
「逝け、半兵衛」
対面した半兵衛の顔が悲痛に歪んだ。
「わしにはお前は見えん。お前の声は聞こえん。お前はここに居なければ、この世界にも存在しない。どんなに探しても、お前にはは見つけられんのさ」
世界が違う。夢さえ見る事の出来ない半兵衛は、生者よりももっと幻想に遠い。
半兵衛は泣いた。
ぼろぼろと真珠のような涙が、透明な彼の頬を伝っていく。
「秀吉様。俺は……」
「もういいんさ。心配をかけたな、半兵衛。もう……逝け」
告げると同時に、月よりも眩しい朝日が月見台の上を照らした。
半兵衛の朧な姿は陽光に照らされて、掻き消えていく。
半兵衛が何かを必死に叫んでいる。だが、秀吉には聞こえない。
そして、太陽の光が空の残月を完全にかき消すと、半兵衛の姿は完全に消えてなくなった。
もしかしたら秀吉には見えていないだけえ、まだそこに、居るのかもしれない。
だが、見えないのは居ないと同じ事だ。知覚できない存在は、幻よりも儚く危うい。
ならば、正しき姿でなかったとしても、そこに存在するは――――半兵衛よりも確かな存在なのではないか。
秀吉は立ち上がると、ちらちらと風に吹かれて舞う桜の花びらを眺めた。
春が過ぎた事にも気づかず満開の花を咲かせる桜は、どこか秀吉の哀愁を誘った。
end
一番過去に捉われ、夢を求めたのは秀吉自身だったのかもしれませんね。
ヒロインがどの時点で死んでいたかは、皆様のご想像のままに。