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残月06





 薄暗闇の中にぼんやりと佇む姿は、まさしく残(のこ)んの月だった――――
 は格子の側にたどり着くと、おもむろにその場に崩れ落ちた。
!」
 格子に縋るようにしがみ付くと、わずかにの呼吸が聞こえる。
 浅く、短く繰り返されるそれ。瞳は虚ろで、表情は何か痛みに耐えるようにしかめられている。
 何故だ。以前、会った時は何ともなかったではないか。
 まるで末期に近い病人に出会ったように、三成の胸は不安で強く押し潰された。
! 何があった、秀吉様は何をしようとされているのだ!」
 格子越しに声を荒げると、はわずかに笑んだようだった。
「こんな所にまで……会いに来てくれたんだね」
 白い手がゆっくりと伸ばされる。格子の中から伸ばされたそれを、三成は両手で握り締めた。
 柔らかく、温かい――――それなのに、何故こうも生気を感じられない。
「私……もう、永くないの」
「病の事か? だが、秀吉様は最善を尽くされていると……」
「ううん、そうじゃない」
 は静かにかぶりを振った。
「正気を……保てないの。徐々に色々な事を忘れて、何を忘れているのかも分からなくなって……」
 わずかに開かれた瞳が、ぐんぐんと色あせていく。
「ずっと夢を見ているみたいな感じがする。大好きな人に囲まれていた、あの日の夢を。だけど……それは本当の事じゃなくて……私も、近く過去の亡霊になってしまう」
 鳶色のそれは徐々に色素を失い、翡翠のような碧の輝きを放つ。
「死ぬのか……?」
 三成の問いにはゆっくりと頷いた。
「でも……私は消えないんだって、言っていた。身体が死んでも、魂はずっとここにあるって……」
 三成ははっと格子中に巡らされたあの文様の事を思い出した。
 それはまるで――――呪いではないか。
 病人のための加持祈祷など真っ赤な嘘だ。それはを死した後も此処に縛り付ける、呪法に違いない。
「今すぐここから出ろ!」
 三成はに命じた。
 未だかつてこれほどまでに秀吉の事を、恐ろしく感じた事があっただろうか。
 秀吉こそ、もはや正気ではない。死ぬ事すら許さず、死した後も側に侍る事を願うとは、親の愛情の度を過ぎている。
 だが、はゆるゆると首を横に振った。
「出来ない……。あの人を、皆を……置いていけない」
「馬鹿が! それでお前は満足なのか!?」
「でも……私の大切な、家族なの」
 それに、とは力なく呟き、
「もう、私の身体は……格子の外では生きていけない」
 三成は脱力するように、すとんとその場に膝をついた。
 何故もっと早く気付かなかったのだろう。加持師がを此処に縛りつける者なら、秀吉の呼んだという匙も同じではないか。
 おそらく、彼らには二つの役割があったのだ。一つはの病を治すために、もう一つはを此処に留めるために遣わされた。
 薬と毒、祈祷と呪い。まったくの真逆の効果を果たすものを、別々の目的のために与え続けてきたのだ。
 の快復を願いつつも、それがわずかな延命程度にしかならぬと知った秀吉は――――別の、異なる方法を思いついた。
 死が免れぬというなら、死した後も縛り付ければ良い。
 閻魔にも、仏にもやらず、極楽浄土へも、地獄へも行かせない――――この城に留まり続けるのだ。
「この格子はね……幻を見せる、呪術なの。私はもう、その一部に取り込まれてしまった……」
 だから徐々に記憶を失い、今と過去の境がなくなる。
「夢を見ている間は、本当に気分が良くて……自分が病を患っている事など忘れてしまう。でも、夢から覚めると……途端に怖くなるの。私は……本当はもう死んでしまっていて、誰かの幻なんじゃないかって……」
 の瞳からはらはらと大粒の涙が零れ落ちた。
 三成は格子越しにの身体を抱きしめた。
 温かい――――これが夢などで、あるものか。
「ねえ……私は本当にここにいる?」
 三成はを抱きしめる手に力を込めた。
「当然だ! お前はここにいる! 過去でも幻でもない……だから、消えるな!!」
 痛いくらいの抱擁を受けながら、は静かに涙を零した。
 ずっと、諦めていた――――
 豊臣のため、大切な人のため……このまま自分はここに在り続けるのだと、その宿命を受け入れていた。そのために自分は記憶を、今を、生を捨てようとしていた。
 ただ心残りだったのは――――この、温かいぬくもり。
 会えて良かった――――
 消えてしまう前に。何もかも、幻の中にかき消されてしまう前に。
 最後に見た現実、それが三成で本当に良かった――――
「三成。大好き」
 格子越しに触れた唇は柔らかく、そこから生命の息吹が流れ込むように、温かかった。
「あなたは過去に囚われないで。私の事……忘れてもいいから」
?」
 三成の問いかけに、は淡い笑みを返した。
 大好き、ともう一度その唇が紡いだ瞬間――――囲い閨の四方に立つ走馬灯が、光を灯った。
 蝶や花などの色鮮やか影を部屋中に放ちながら、ゆっくりと速度を上げていく。
 くるくる、くるくる、と回りながら――――
「最後にあなたに会えて良かった……」




end



薬と毒、祈祷と呪いは表裏一体だと思います。
まったく真逆の効果を発揮するものですが、元は同じではないかと。
次回、最終話です。