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残月04





 気が触れてしまったんさ、と秀吉は語った。
 度重なる発作、高熱に冒され、脳に損傷を受けたのだと匙は説明したと言う。
 一種の記憶喪失かと思われたが、どうやらそうではないらしい。言葉が通じるようで、まったく会話が行き違う事がしばしば起こる。その場に有り得ない物を見たと言い、いるはずのない者と言葉を交わす。
 の眼は、もはや此岸を見ていない。遠く、彼岸をあくがるように空虚な空を見つめているのだ。
「あんな姿を、お前達に見せられるわけがないじゃろ……」
 秀吉はすべての毒気が抜かれたように、ぐったりと肩を沈ませて呟いた。
 愛娘のように可愛がっていたが、次第に狂っていく様を、秀吉はどんな気持ちで見続けてきたのか。
 緩やかに死んでいくように、弱り、おかしくなっていくを、他人の目などに晒せる筈がない。兄弟のように育った三成だからこそ、決してその姿を見せることは出来なかった。
「まれに正気に戻る事はあるんさ。じゃが、それもほんの一時で、しばらく経てば官兵衛はどこだ、半兵衛はどうしていると聞く」
 官兵衛が秀吉に疎まれ九州に飛ばされた事など、も承知であったはずだ。そして、半兵衛は――――とうの昔に死んでいる。
 何度言い聞かせ、説明しても、しばらく経てば元に戻ってしまう。
 かつての――――まだ両兵衛と共におり、信長が健在だった在りし日のに、戻ってしまうのだ。
 すでに夜は過ぎたと言うのに、空に取り残された月のように、の心は留まり続けている。現実を見ず、時間を感じず、現世の理から独り乖離してしまったように、そこに在り続けるのだ。
 いっそ殺してしまえと、どんな気持ちで告げたのだろう――――
 じわじわと日の光に蝕まれる月を、どんな想いで見上げていたのか。
「もう行け。の事は他言無用じゃ」
 秀吉は憔悴しきった顔を片手で覆うと、追い払うように手を振った。
 かける言葉を持たぬ三成は、無言で叩頭すると秀吉の豪奢で、絢爛なばかりの空虚な座敷を辞去した。奥に続いているだろうの居室の襖をちらりと見やったが、その襖が開かれる事はなかった。





 城に戻った消沈の主人を、左近は複雑な表情で迎えた。
 三成の口からぽつりぽつりと語られるの姿は、にわかには信じがたく、また容易く受け入れられるものではなかった。
 左近にとってもは秀吉一家の絆を象徴する存在である。それが壊れてしまったという事は、不吉な何かを暗示するようでもあったのだ。
 兄弟のように育ち、密かに心を寄せていた三成にしてみれば、その心の傷はいかばかりだろう。生きていてくれた事を喜ばぬでは無いが、やはりあの姿は三成の心に深い傷を残した。
「でも、殿の想像が実現しなくて良かったじゃないですか」
 沈黙に耐え切れず、左近が口を開いた。
「親が子を殺すようなことは、あっちゃあいけませんよ。それが分かっただけでも、良しとしなくちゃ」
 気休めに過ぎない。だが、言わんとする事が分からぬでもない。
 秀吉は変わってしまったが、や三成たちを大切に気持ちは残っていたのだ。絶望的なこの状況で、それだけが救いのように思えた。
 だが――――
 左近はわずかに違和感を覚える。
 三成の手前そのように言いはしたが、やはり長い間の所在が掴めなかった理由になりはしないのだ。
 必死に隠して来たとしても、果たして人の口に戸など建てられるものだろうか。病人を世話する人間、匙師、わずかだがに関わる人間は存在するはずなのだ。
 その時、庭先に黒装束の男が姿を現した。左近が間諜として飼っている忍びの手の者である。
「何事だ」
 左近が縁側に降り立つと、男がはっと短く応答した。
「大阪城に忍ばせていた者に異変が」
「異変……?」
「姿を消しました。消息は不明ですが、これが裏の雑木林に残されていたと言う事は、おそらく……」
 男は静かに告げると、足元に置いた包みをゆっくりと開いた。海老茶色の風呂敷に包まれたそこから、わずかに指先が覗く――――
 人間の腕だ。切り離されて白く硬直しているそれは、手の平に何か紙状の物を握り締めている。
 男は硬直した指を一本一本伸ばすと、手の平から紙を取り出し、左近に献上した。
「こいつは……護符?」
 白い和紙に描かれた複雑な文様。札や何かのように見えるが、このような奇妙な形のそれを左近は未だかつて目にした事が無かった。
 忍びはこれを手にして始末された。という事は、この護符自体にに関わる大きな謎が、隠されているはずなのだ。
「左近。俺はもう一度、大阪城へ向う」
 三成は静かに立ち上がると、暗く沈んだ表情を左近に向けた。
「殿……」
 おそらく三成は左近と同じ事を考えている。
 の一件にはもう一つ、語られていない真実がきっと存在するのだ。
 だが、それを知る事が果たして本当に主人のためとなるのか――――それは分からない。
 それでも、もう後戻りはできないか……
 三成の暗く閉ざされた瞳の中に何か覚悟めいたものを見つけ、左近は胸中で意を決する。
 避けて通れない道ならば、己は最大限力を尽くし、主の障害を取り除くまでだ。
「左近もお供させてもらいますよ。殿だけじゃあ、心配ですからね」
 左近の軽口に、三成はわずかに笑んだようだった。
 暮れ始めた茜の空に欠けた月が、静かに昇る。





end



さてさて、物語も後編です。
次回、再び大阪城へ!