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残月02





 どすどすと廊下を踏み鳴らす音に、夜通し仕事に没頭していた左近は、おやと片眉を上げた。
 てっきりあと何日か泊まって来るかと思っていたが、予想よりだいぶ早い帰還である。
 しかもこの足音から察するに、かなり機嫌が悪い。また加藤殿や福島殿と何かあったかな、と邪推しながら、左近は主を迎えるべく廊下に出た。
「どうしたんです、ずいぶんと早いお帰りで」
 声をかけると三成は左近の顔を一瞥し、そのまま足を止めず座敷の奥へと向った。そして自室の丸茣蓙の上にどかりと腰を下ろすと、
「不愉快だ」
 と、開口一番に言ってのけたのである。
「おやおや。太閤殿下にお招き預かったというのに、そいつぁ穏やかじゃありませんね」
 何かありましたか、と問いかけながら、左近もその対極へと腰を下ろした。
「何かも何もない。褒美を授かった」
「ほう! そりゃ良かったじゃないですか」
「何が良いものか。あのような問いに何の意味がある。月を射落とせだと? ふん、欲しいものなどもはや何もないだろうに」
 なるほど、と左近は顎に手をやって薄い笑みを浮かべた。断片的な言葉だけだが、大阪城で何があったのか、だいたいの検討は付く。
 月に一度、秀吉は懇親を深めると言って、子飼いたちを城に招くのだった。今や日の本中の大名がかしずく秀吉だが、古くからの家臣である子飼い達とはいつまでも睦まじく、また三人にもそうであってあって欲しいと思っている。
 だが、その実秀吉は三人に心を許しきっているのではなく、年々疑いの心を強めているように見える。大きすぎる富と名誉が、秀吉を徐々に変えていったのだ。
 優しく、誠実だった秀吉はどこかへ行ってしまい、今は猜疑心と私憤の鬼である。
 月に一度膝元に呼び寄せ、変心はないか、不義はないかと確かめているのだ。
 三成はそんな秀吉の卑小な行為を嫌っている。彼の愛した秀吉は、家臣を疑うような狭量な人物ではなかった。
 それがいつの頃からか変わってしまった。年月が経つにつれて、心も身体も醜く歪んでしまったのである。
 もちろん、そんな秀吉を諌める者もいたが、秀吉の苛烈な怒りを受け、次第に皆口を噤んでいった。三成もその内の一人である。自分だけはとずっと思い続けてきたが、とある忠臣を秀吉が私憤で斬ったと聞き、どこかで心が折れてしまったのだ。
 以来、逆鱗に触れぬ範囲で応答をする、という仕組みが出来てしまっている。そんな自分に嫌気が差さぬでもなかったが、やはりどこかで諦めてしまっていたのだろう。
「それで、もう一つの目的はいかがでした?」
 左近が問いかけると、三成は不機嫌そうな顔を上げた。
 毎月大阪城へ向うのには、秀吉のご機嫌伺いのほかにもう一つ理由がある。
 むしろ、こちらが主な目的と言ってもいい。
 長く顔を合わせていないに、会う事である。
「駄目だ。加減が良くないと追い返された」
「またですか……」
 女だてらに軍師として秀吉に仕え天下泰平に助力したは、秀吉が小田原城を落とすと共にその任を退いた。
 元々身体の弱い質で、それからは秀吉の庇護下で静養していると聞く。
 だが、徐々に表に姿を現す事が少なくなり、今は人づてにしか消息を知る事が出来ない。
 当然の事ながら会わせて欲しいと秀吉に願い出たが、何度頼んでも、調子が良くない、病が重くなった、と拒絶されるのである。
 初めは純粋にの身を案じていた三成だったが、次第にそれは疑心に変わった。
 もしや、はもう生きていないのではないか――――
 そんな疑念に囚われ、自ら否定する日々が続いている。
 秀吉様はを可愛がっておられた。殺す理由などない。だが、なぜ隠す。隠さねばならぬ理由があるのか。
 疑い、幾度同じ事を考えども答えはなく、あの堅牢の城の中から真実は見つけ出せずにいる。忍びを放ち、城の者に金を渡し、仲違いしている清正や正則にも問い質したが、誰も真実を知る者はいない。
 まるで神隠しにあったように、その痕跡が一切かき消されているのだった。
 ――――
 幼い頃から側におり、憧れ、恋焦がれた娘の姿を、瞼の裏に思い描く。
 もはやとっくのとうに少女ではなくなっただろうに、自分は大人になったの姿を知らない。
 幾年も、幾年も、会えず想いばかりを募らせている――――
『いっそ夜のうちに死んでしまえたら楽だったろうに』
 秀吉の言葉を思い出し、三成ははっと息を飲み込んだ。
 あれは……あの言葉は、の事を言っていたのではないか……?
 白い空に取り残された頼りない残り月。
 日に晒されて弱りながらも、死ぬに死ねないその姿、それは――――
「殿?」
 名を呼ばれて顔を上げると、左近が怪訝な顔で三成を見つめていた。
 室内だというのに、三成は頭から水をかぶったように、びっしょりと汗をかいている。
 お加減でも悪いのですか、匙でもお呼びしましょうか――――
 どこか遠くで、左近が何か言っている。
 三成は視線で宙をなぞるように、ゆっくりと視線を空に向けた。縁側から覗く、明け始めたその空には――――
「おや、綺麗な残月ですねぇ」
 白く儚い孤高の月が、ぼんやりと空に浮かんでいた。






「ぅ……ぁ……」
 苦しげに浅い呼吸を繰り返す。
 匙の薬が効いたのか、それとも加持師の祈祷が影響しているのか、は苦悶の表情を浮かべて地面を這った。
……」
 名を呼ぶと、固く閉じられた瞳がうっすらと開いた。かすれる視界の中に秀吉の姿を見つけ、はわずかに顔に微笑を浮かべる。
 笑うな――――無理をして笑うなと言ってやりたかったが、その言葉は喉の奥まで出掛かって、再び気道の底へと沈んでいく。
 言葉の代わりに側に膝を付き、手を握ってやった。
 常人よりも冷たいが、かすかに温もりを帯びるそれを、秀吉は大切な物を扱うようにそっと握り締めた。それがまるで、の命そのもののように思えた。今にも消えそうな、無理やりにこの世に繋ぎとめた温度。
、すまん……」
 そんな言葉しか出てこない自分が心底厭だった。だが、は珠のような汗を額に張り付かせ、笑みを浮かべたまま微かに首を横に振る。
「秀……さ、……感しゃ……」
 うまく聞き取れなかった。だが、何かに礼を言っているようで、それがまた秀吉の心を重くさせた。 
 苦しみに耐えるようには片目をつぶり、秀吉の手を強く握り締める。爪先が秀吉の皺だらけの甲に沈み、半月型の痕を残した。
「うっ、うう……ううぅ……」
 秀吉はの手を強く握りながら、声を殺すようにして咽び泣いた。
 夜のうちに死んでしまえたら、楽だったのだろうか――――
 生者の業に縛られず、未練などなく、朝日にかき消される前に西の空に沈んでしまえたら。
 だが、死ぬと分かっていて、どうして行かせる事が出来る。二度と昇らぬ月だと知って、なぜ朝を望む事が出来る。
 ならば――――ならば、ずっと残月を眺めている方が良いではないか。
 それが偽りの月だろうと、仮初めの夢だろうと、この瞳には残像が、この鼓膜の奥には残響が、今も映り、響いているのだ。
……行くな……わしを、置いて逝くな……」
 秀吉はの小さな頭を抱え上げて、涙で濡れた頬を摺り寄せた。
 かすかな温もりだが、確かにそこには命がある――――
 今にも乖離しそうになる魂を繋ぎとめるように、秀吉は強く、強くの身体を抱きしめた。




end



秀吉に疑心を抱き始めた三成。
ここから「残像」とは若干、話の流れが変わってきます。
それにしても、どうして明け方に帰ってくるんだ、みっつんよ。