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悪い大人





 案の定――――は翌朝、大変ばつの悪い顔をしていた。
 泣きはらした顔は眼が腫れて、酒気が残っているのか、ふらふらの状態である。そんな姿を、その原因になった男に見られるなど、屈辱に違いなかった。
 それを全て知らぬ顔で通し、ねねに後の事を頼むと、半兵衛は執務室へと戻った。
 執務室へ戻ると官兵衛が無表情を若干、不機嫌そうにしかめ、執務に勤しんでいた。
「あれが迷惑をかけたそうだな」
 と、書面から顔を離さないままで言う。
「あれには私からもきつく言いつけておく。執務に差し支えるほど飲むなど、言語道断だ」
「んー、まあそうかもだけど……」
 半兵衛はふと官兵衛の横顔を見やった。
「なんで官兵衛殿、怒ってんの?」
 と、その横顔に声をかけると、官兵衛は顔を動かさぬまま視線だけをこちらに向けた。
 鋭い冷えた視線が、わからぬのか? と言外に告げる。
「愚かな弟子と、愚かな軍師が不幸にも私の周辺に二人もいた偶然に、腹を立てている」
 あちゃぁ、と半兵衛は胸中で呟いた。
 官兵衛の怒りを恐れてに手を出さなかったわけだが、この無表情の軍師殿はとうにそんな事などお見通しだったらしい。
「あー、でもさ、今回の事は成り行き上、しかたなかったって言うか……」
 無言で向けられた非難の視線が、半兵衛に突き刺さる。
 官兵衛が怒っているのは半兵衛がを拒絶した事にではない。半兵衛がうまくをあしらい切れなった事についてだ。
 とは言え、それは半兵衛にとっても困った事だ。を泣かせたいわけではないが、その想いに応えられない以上、そうなってしまうのは避けなれない。
「そうは言ってもさぁ……俺も心が痛まないでもないけど……」
「罪悪感など何の役にも立たぬ。悪いと思う気持ちがあるのなら、詰まらぬ事であれの気持ちを騒がせるな。下らぬ男に関わって、あれの軍師としての将来が駄目になったらどうしてくれる」
 下らぬ男、とはずいぶんな言い草だが、官兵衛にして見れば生産性のない恋愛に興じる半兵衛は、下らぬ男の筆頭なのだろう。そんな男の毒牙に愛弟子が引っかからぬよう、彼も彼で人間らしい気持ちを持っているのかもしれない。
「分かってるって。さすがの俺も子供に手は出さないって」
「……誠か?」
「あー、はいはい。誓いますー」
 胡散臭そうな物でも見るような目を受けながら、半兵衛は宣誓するように手を挙げた。
 官兵衛はしばらく不審そうな目で半兵衛を見ていたが、やがて深くため息をつくと、視線を元に戻した。
「では、早く執務に就け。あれがいない分、卿には働いてもらう」
 ううぇ、と声を上げて不満を主張したが、すでに官兵衛は見ておらず、その日半兵衛は夜遅くまでみっちりと働かされるのだった。





「あー。もう官兵衛殿、容赦なさすぎー」
 半兵衛は首をこきこきと鳴らしながら、日の落ちた道を独り歩いていた。
 あたりはとっぷりと日が暮れて、これから自分の屋敷まで戻るのかとお思うと面倒くさくなってくる。遊郭にでも行ってそのまま泊まっちゃおうかなぁ、と考え、そういえばあの遊女とは切れたのだと、ふと思い出す。
 自分は廓を外泊場所くらいにしか思っていなかったのかと、自分自身でやや呆れてしまった。
 まあ、遊女を添い寝してくれる女程度にしか思っていないのだから、それも仕方がないのだろう。こちらは客なのだし金を払えばどのように思おうが自由だろうが――――やはり、これを素直に話すと非難されそうだ。
 そんな事を思いながらてくてくと歩いていくと、暗闇の中にぼんやりと佇む明かりがあった。
 提灯を片手に、細身の娘の姿が闇にすうっと浮かび上がる。
 あれは――――だ。
「やあやあ、どうしたの。こんな所で」
 と、昨日の事には触れず陽気に声をかけると、はぺこりと頭を下げた。
「昨日は申し訳ございませんでした。半兵衛様にご迷惑をおかけしたので、一言お詫びしたくて……」
「そんないいのに」
「門の先までお送りいたします」
 はそう告げると、半兵衛の足元を手にした提灯で照らしながら、ゆっくりと歩いた。
 今日のは何か雰囲気が違う。じっと押し黙ったまま俯いて歩く姿は、何か思いつめている様でもあった。
「お見合いを……する事になったのです」
 ぽつりと、が呟くように語った。
「前からお話は戴いていたのですが、ずっとお断りしていて……」
 へえ、と半兵衛は特に関心がないような素振りで、相槌を打った。
「どうして急に?」
「わかりません……。官兵衛様が、本日、急に……」
 そこまでするかぁ、と半兵衛は胸中でため息を付きたくなった。確かに自分は官兵衛にして見れば目の上のこぶ、害虫みたいなものかもしれないが、そこまで邪険にせずとも良いとも思う。
 そもそも、のこの思いつめた顔を見れば、一体どちらが悲しませているのだと文句を言いたくなった。
 が、の想いに応えない半兵衛には、それを言う資格はない。
 そうなんだ、と適当に返すと、は暗い表情で頷いた。
 それ以上かける言葉もないまま、二人は無言で夜道を歩む。
 門の前まで来ると、は足を止め、それでは、と頭を下げた。
 提灯の灯りを受けた白い細面は、半兵衛が思っていたよりずっと大人びて見えた。
「今まで……ありがとうございました」
 は呟くように告げると、ぺこりともう一度頭を下げた。
 何に対する礼なのか知っていながら、半兵衛は何のこと? と空とぼける。
「いいんです。半兵衛様は大人だから……きっとご迷惑だろうって気付いていました。それでも……私は、嬉しかったです」
 にこりと微笑んだ顔は、半兵衛の知るどの顔よりも美しく――――
 きらりと涙が零れ落ちるよりも早く、半兵衛はの身体を抱き寄せていた。
「はんべ……さま?」
 が驚愕の表情で呟く。取り落とした提灯が、足元で煌々と灯りを放っている。
「あー、もう……俺、いい大人なんだけど」
 半兵衛は呟くと、がしがしと頭を掻いた。
 とりあえず官兵衛は怒るだろう。もしかしたら秀吉やねねも、嫌な顔をするかもしれない。
 今まさに、くもの巣にかかった蝶を襲うように、いたいけな子供が悪い大人の毒牙にかかろうとしているのだから。
 だが、こんな顔をされて心を動かさぬほど、自分は男として終わっておらず、ついでに言うならば未来ある若者を素直に見送ってやれるほど、良い大人でもないのだ。
 こんな事をすればを縛り付けてしまう。ただの憧れなどではなく、もっともっと深く強い愛憎の鎖で、捕らえてしまうと知りながら――――半兵衛はあえて、その鎖を強く引いた。
 俺って悪い大人――――
 そんな自嘲的な言葉を胸中で呟いて、それでも半兵衛は笑い出したいほど愉快な気持ちでいる。
 こんな風に心を動かされるのは久しぶりで、自分から欲しいと思った事などもしかしたら初めてかもしれない。
 これはもしかしたら、いつもと違う展開かもしれないと、心なしかわくわくしながら――――
「おじさんをその気にさせたんだから、覚悟決めてよね?」
 の顔を包み込むように両手を添えると、『毒牙』となる口づけを静かに落としたのだった。





 次の日、官兵衛はすこぶる機嫌が悪かった。
 が縁談を断った挙句に、半兵衛の毒牙にまんまとかかってしまったと、知ったためである。
 しかも、当の本人は、
「官兵衛殿〜。俺、約束破る事にしたから」
 などとへらへらと笑いながら宣まったわけで、官兵衛の怒りは絶頂に達したのだった。
 とりあえず泣かしたりしたら今世どころか来世の平穏も諦めろと、それはそれはきつい脅しをかけはしたが、大人としても軍師としても破綻している半兵衛に如何ほど通じたものか。
 とはいえ、官兵衛にとっては不本意な形に収まったわけだが、が嬉しそうな顔をしているのだから、それはそれで良かったと喜ばぬわけにもいかないわけで――――
「卿は本当にどうしようもない大人だな」
 と毒を吐いた官兵衛の顔には、よく知る者だけが気付く事ができる、淡い笑みが浮かんでいたのだった。





end



官兵衛殿がおかんべえすぎる!
最後は過保護全開でしたね。
これにて「大人」シリーズ完結です。
ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました!