非道い大人
夜半過ぎ、半兵衛は足音を消して屋敷に戻った。
月光を浴びた青白い顔には、涼やかな顔に似つかわしくない紅葉のような手の痕。恋仲にあった遊女と、関係を終わらせた代償だった。
遊女の激昂は凄まじいもので、絶対に許さない、恨んでやると叫びながら、この顔の痕を受けたのだった。簡単に切れると思っていた相手に、恨んでやると捨て台詞を吐かれるのはあまり気持ちの良いものではなかったが、最後まで遊女が泣かなかった事に安堵する自分がいた。
大分、自分は卑怯者だ。
要は無責任で自分勝手なのだ。恋仲になった所で、半兵衛の心はひどく渇いている。
相手に依存する事はなく、また心を許すこともない。それに対して不誠実だと自分自身では思わないが、大抵の場合は相手にどうして、なんで、非道いと詰られる事となる。
これは軍師としての性格なのかもしれないが、どうにも他者に依存する、あるいは依存されると言う状況が、自分にはひどく気持ちが悪いものなのだ。
相手の事は好いていると思うし、睦言も繰れば、番う事もある。
が、それらの行為と、精神的に繋がろうとするのは、まったく別物に思えた。
所詮、人は個々の身体という箱から出る事は出来ない。心を通じ合わせるというのは、錯覚だろう。相手の事など分かるはずがないのだし、もし分かるというならばそれは憶測であり、憶測に伴う確認作業を行ったに過ぎないのだ。
それを愛情と受け取るのはまあ個人の自由だが――――自分はそうではないという事。
だが、それを理解させるのは難しい。どんなに恋愛慣れしている女でも、だいたいこの手の話をすると、好いていないのか、ただの遊びかと、不誠実を咎められたり、あなたは人を好きになるのが怖いのねなどと見当違いな解釈を受ける事になる。
だから、いい加減面倒くさくなって、理解者を求めようとはしなくなった。
詮索されないために、誠実な振りをして――――甘い言葉を与え、優しい愛撫を繰り返し、それで波風を立てないようにする。
本当は自分は、求めても居ないし、与えてもいない。
そういう振りをして相手をぬか喜びさせるだけの――――無責任で自分勝手な卑怯者なのだろう。
だが、それが悪いとはどうしても思えない。そもそも愛情を足し算、引き算で考える事の方がよっぽど不誠実に思えるのだが――――それを口にするとますます怒られる、あるいは泣かれる事になりそうなので、自分は何も語らないのだ。
とても家に寝に帰る気になれず、勝手知ったる他人の家とばかりに、執務室で朝まで仕事に没頭する事にした。
裏口の守衛に適当な理由を聞かせ屋敷に入ると、皆寝静まった後なのかしんと静寂がそこにあった。
灯りもつけないまま、執務室に向う。
月明かりが差し込むそこは、昼間に見る雑然と煩い雰囲気とは異なり、静謐と秩序が佇んでいた。その中で己の文机だけ雑多と書物が積み上げられ混沌としているわけだが、座りなれた座布団に腰を下ろすと、妙に心が安らいだ。
ふうっと、今日の出来事を労うように、ため息を漏らす。
遊女に別れを告げた理由は、実は自分でもはっきりしない。
そろそろ潮時かと感じてはいたが、今日すぐに行動に移したのは、少なからずの涙に動揺したからだったのだろうか。
罪悪感――――と言うのとは少し違うのだが、何か後ろめたさを感じたのは事実。
こんな年若い娘が自分の心を必死に隠そうとしているのに、自分は何もかも知っていながら大した苦労もなく知らん振りをし続けることを、何となくずるく思ったのだ。
「俺、に罵って欲しいのかなぁ……?」
もしもが自分の所業を全て知り、最低です見損ないましたこの卑怯者、とでも罵って見限ってくれたのなら、自分はいくらか安心出来るのではないだろうか。
半兵衛の後ろめたさの正体は、がこの状況を耐えようとした事だ。
駄目でずるい大人なんか好きになったばかりに、募る恋心さえ忍んで、何もなかったような振りをする――――自分が気づかぬうちに泣いてしまうくせに、関係ありませんと虚勢を張る。
そんな風に追い詰めてしまった事を、きっと自分はこれでも申し訳なく感じているに違いない。
だが、それに応える事はしない。それが卑怯なのだ。だからせめて、責めて欲しい。それすらも、自分のためであるくせに。
「うーん」
半兵衛は珍しく煩悶すると、がしがしと頭を掻き毟った。
と、ふと夜風が縁側から吹き込んで、そちらに顔をやると見慣れた紅い布切れがぱたぱたとなびいているのが見えた。
何だろうと首を伸ばすと、ほっそりとした女の足首が――――二つ重なるように覗いている。
「あちゃ……」
半兵衛は思わず額に手をやった。
縁側に出ると、庭先に顔を向けた格好でが寝転がっている。
枕元には猪口と徳利が――――独りで夜酒でも嗜んだまま、寝入ってしまったのだろう。
これも自分のせいだろうかと考え、半兵衛は深くため息をついた。
失恋までは責任を負いかねないが、ここまで追い詰めてしまったのは確かだ。
「参ったなぁ」
と、半兵衛はぽりぽりと頭を掻いた。
「―? こんな所で寝てると風邪ひくよー?」
呼びかけてみたが、反応はない。
勝手に寝所に連れて行くわけにもいかないし、この時間に家人を起こすわけにもいかない。
半兵衛は逡巡した挙句、自分の羽織を脱いでその肩にかけてやる事にした。
そして、縁側に腰掛けるように隣に座り、夜が明けるのを待つことにした。
朝、目覚めた時、はまた傷つくかもしれない。本当はこんな姿など、一番見られたくない相手に違いないのだ。
だが、自分は駄目でずるくて非道い大人だから――――それすらもきっと知らない顔をして、優しい振りをするのだろう。
自分が痛まない様に、優しい振りをして、きっと傷つけるのだ。
「あーあ、自分が嫌いになりそ」
半兵衛は自嘲的な笑みを零すと、そんな戯言を呟いてみた。
end
そんな非道い大人。