ずるい大人
初めはただ可愛いな、と感じた。
ぎゃんぎゃんと小言の煩いが、自分に憧れめいた恋慕を抱いているらしいと知った時、この娘にも年相応の可愛げがあったのかと感心すらしたものだった。
普段、昼行灯を装っているが、これでも勘は良い方である。
今までそういった女の視線を幾度も浴びてきたし、軍師という職業柄か誰が自分に好意を向けており、誰が自分に敵意を抱いているか敏感に察する事が出来た。
その半兵衛の嗅覚からすると、のそれは憧憬が恋慕に変わったばかりの恋心といった所だろう。しばらくそんな純愛に触れていなかった半兵衛には、それはそれは珍しい相手ではあったが、さすがに青臭い恋に興じるにはいささか半兵衛はとうが立っている。
何より軽々しく手を出すには、あまりにやりにくい相手だ。
相手が子供で処女という事を差し引いたとしても、官兵衛が後見であるというだけで、難易度と面倒くささが跳ね上がる。
顔も好みだし、頭も悪くない。しばしの恋人とするには申し分ない相手で、勿体無いとさえ思ったが、さすがに官兵衛に半殺しの目に合わされるのでは、勘定が合わない。
そういうわけで、半兵衛はの想いを黙殺した。
そもそも気ままな恋愛を楽しむ半兵衛には、の想いはいささか重過ぎる。後腐れなく切れる相手でもないし、縁がなかったと思って忘れることに――――否、なかった事にしたのだ。
そうして半兵衛の中ではただの同僚の女の子に戻り、半兵衛はいつも通りの怠惰でだらしのない生活を続けた。
もはやからどんな視線を受けても何も感じなくなり、やがて半兵衛の中では恋慕の情を己に向ける数多くの女の中の一人へと埋没していったのだった。
――――そんなある日の事である。
その頃の半兵衛はちょうど遊女との駆け引きめいた恋に、退屈を覚え始めていた頃だった。
縁側でうつらうつらと船をこいでいると、背後に人の気配を感じた。
「半兵衛様?」
だった。
相手をするのも煩わしかったので、そのまま狸寝入りをしていると、じっと寝顔を見つめるの視線に気がついた。
何を考えているのか、大体の想像はつく。
そのまま寝入った振りをしていると、ちょんと鼻先を突かれた。出来るだけの幻想を壊すように、中年男らしいくしゃみを返すと苦笑が零れた。
大抵の女は、自分が容貌に似つかぬ素行をすると厭な顔をしたり辟易するものだが、はそうではないらしい。初めから半兵衛の事を駄目な大人とでも思っているのか、いまさら幻滅させるのは難しいのだろう。
そればかりか、
「半兵衛様」
と、切なげな声で呼ばれて。
恋する乙女が今まさに惑おうとしている状況に、さすがの半兵衛も焦った。
半兵衛の中で、はすでに恋愛対象外に置かれている。変に気を持たせたり、誤解させる様な事はしたくないのだ。
「半兵衛……さま」
と、再び熱っぽい声で。
子供だとばかり思っていた少女の艶っぽい声に、知れず胸が高鳴った。
まずいな、と。
目を閉じてそ知らぬ顔をしつつ思う。
これではこの娘は、ずっと半兵衛に叶わぬ恋心を抱いてしまうかもしれない。
女が泣くのは嫌いだ。それがどんな原因であれ、女の涙ほど見ていて心が痛むものはない。
だから、半兵衛は真面目な恋などしない。いつでも笑って冗談のように別れられる、偽りの恋しかしないのだ――――
追い詰めるつもりは、たぶんなかったのだと思う。
ただそれは一種の防衛本能のように、半兵衛は最近仲の良かった遊女の名を呟いた。
途端、はっと息を飲む気配と、静かに背後から退く音が聞こえ――――
の恋心がばらばらに壊れる音がした。
「んー、よく寝たぁ」
半兵衛は大きく伸びをすると、まるで長時間昼寝をしていたように、凝り固まった肩をこきこきと鳴らす振りをした。
「よく寝たじゃありませんよ」
と、背後からの声。いつも通り半兵衛の素行に呆れた、という風な声音だった。
「あー……えっと、おは……よう?」
「おはようでもありません。まったく……ぜんぜん今日、働いてないじゃないですか。官兵衛様に怒られるの私なんですからね?」
まったく、とため息を付く姿に、密かに安堵の吐息を漏らす。
これでまた軍師・竹中半兵衛としての株は下がった事だろう。
が、その代償がの涙ならば、そのくらいの事は安いものだ。
ごめんごめんと頭を掻きながら、
「今日こそは本気出そうと思ったんだけどさぁ、なんかここの陽だまりがいい感じでね」
ここ、すご〜く昼寝には持ってこいなんだよ、などと言い訳すると、
「そういうのは聞き飽きました」
ぴしゃりと言い放たれて、いつも通りのの姿にほっと胸をなでおろす。
そんな風に振舞えるなら安心だ。しばらくは胸を痛めるだろうが、自分のような駄目な大人に恋をするより、年相応の青年と健全な愛を育む方がよっぽどいいだろう。
そう思っていた矢先――――
「……どうかした?」
半兵衛が尋ねると、は眉間に皺を寄せたままで怪訝そうな顔をした。
「だって。泣いてるよ、」
何事も無かった風なの平然とした顔から、一筋の透明な雫が零れた。
は己が泣いている事に気づかなかったのか、呆けた顔で自分の頬に触れた。
制御できないのか、真珠のような大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちる。
は呆然とした表情のまま、ごしごしと袖でそれをぬぐい上げ、何でもない顔をする。
「なんでもありません」
「や、でもさぁ……」
「半兵衛様に関係ありません」
そんなはずがあるわけない。自分はが切なげな声で名を呼ぶのを、聞いてしまったのだ。
だが、それを明かせるはずもなく、半兵衛は困ったような笑みを浮かべると――――何も知らない振りをした。
それはとても残酷な仕打ちだっただろう。
半兵衛の心のない慰めの言葉など、余計を傷つけるだけだったのに――――は怒ったような顔をして、
「半兵衛様のくせに、生意気です」
精一杯の虚勢を張った。
end
本気の恋は逃げる、ずるい大人。