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 少し、浮かれすぎていたのかも知れない。
 あの人が優しくて、それで甘えてしまったのかもしれない。
 いつでも優しい顔で微笑んで、笑って、私の名前を呼んでくれるから……だから、きっとこの人も同じ気持ちでいてくれるのだと、勘違いしてしまった。
 なんて愚かだったのだろう。
 あの人は大人だから、社交辞令でそう言ってくれていただけなのに。
 だけど、「かわいいね」って。
 そう言ってくれたから、私、嘘みたいな恋に落ちたんです。




思いは伝わらない・前編





 執務室の襖を開けると、外はとっぷりと日が暮れていた。夕陽はとうに山入りに隠れ、空には細い月が昇っている。
 半兵衛はこきりと肩を鳴らして、腕を伸ばした。こう毎日働きづめではいつかどうにかなってしまう。こんなの柄じゃないのにとぶつぶつ呟きながら、半兵衛は帰路を急いだ。
 と、月明かりの下に黒い影を見つけ、半兵衛は目を細めた。逆光になって表情までは読めないが、あの背格好は清正だろう。半兵衛の良く使う近道に立っていたという事は、どうやら自分に用があるらしい。
 まずい所でまずい奴に会ったかな、と内心焦ったが、それを表情にはおくびも出さず半兵衛は清正の前に立つ。
「やぁ、こんな所で会うなんて奇遇だねぇ」
 と思ってもいない事を言う。このまま形ばかりの挨拶でも返してくれれば事なきを得たのだが、清正はひどく冷めた顔で自分を見下ろすばかりだ。
が……」
 と、わずかに唇が開いた。
が三晩部屋に篭ったきり出てこない。あれはあんたが原因か?」
 冷ややかに注がれる視線。
 半兵衛は唇の端をわずかに上げ、
「そうだよ、って言ったら?」
「……狩る」
 清正の握り締めた指先に、力がこもるのが見て取れた。
 半兵衛はやれやれと密かに肩をすくめた。ねねが過保護なのは知ってはいたが、弟のように扱われる子飼いの将達までこの調子とは恐れ入る。箱入り娘だとは分かっていたが、ここまで甘やかされるのは逆ににとっても不幸に違いない。
 半兵衛は静かにため息をつくと、いい加減にして欲しいなぁ、と呟いた。
「お姉ちゃんを泣かされて、そんなに悔しいの?」
「なにっ?」
 清正の神経を逆撫でるには、もっとも効果的な言葉を選んだ。予想通り、清正は気色ばみ、獰猛な虎のようにみるみる目を鋭くさせていく。
「言っておくけどね、そういうのって余計なお世話だよ。だいたい子供でもないんだから、いちいち色恋沙汰にまで他人が口出さないで欲しいなぁ」
 正論だ。の恋心が成就しなかった。振ったのは半兵衛。それで悲しくて部屋から出られないというのを、振った男のせいにされても困る。
「やっぱりあんたが原因か」
「そうだよ。でも、仕方ないでしょ。のことは可愛いと思うけど、そういう対象としては見れない。事実なんだから」
 だから諦めさせてもらえる? 淡々と思いを口にすると、ふいに清正の手が半兵衛の胸倉を掴みあげた。
「てめぇっ……!」
「俺のこと殴る? それでもいいよ。でも、それでどうにかなるの? 逆に……を悲しませることになるんじゃない?」
 は俺の事が好きなんだから。
 自分でも思うほどにいやらしく笑みを浮かべると、清正の拳が容赦なく飛んできた。がっと鈍い痛みを受け、口の中に血の味が広がった。
「……これで気が済んだ?」
 ぺっとつばと一緒に血を吐き出すと、清正はゆっくりと手を放した。
 どうして子飼いの将たちは、どいつもこいつも血の気が多いのだろう。今、目の前にいる清正も含め、三成も、正則も、それぞれに半兵衛の元を訪れ、よく事情も知らないうちに人を責め立てる。
 半兵衛とのことを、何も知らないくせに――――
「そんなに大切なら……清正がを守ってあげなよ」
 それだけ言い残し、半兵衛は清正の横を通り過ぎた。
 力なくうな垂れた清正が、小さく呟く。
「んなの……できたら、とっくにそうしてる……!」
 半兵衛はそれを聞こえない振りをして、そのまま清正に背を向けた。
 好きだ嫌いだと男女の組み合わせを、まるで子供の戯れのように組み替える。
 どうせ男女は凸凹の型だ。情がなくたって、うまくはまるように出来ている。
 そんなすれた事を思いながら、半兵衛は胸に積もる苛立ちをただ感じていた。



end


珍しく切ない系の話。
全3話です。