金華猫02
書庫を出た私は桔梗の後ろに付いて、殿の寝所へ向った。西日の差す奥座敷が殿の居室である。
さすがに女子の寝所にずかずかと入るのは憚られ、私は廊下で待つことにした。
「様。桔梗でございます。お加減はいかがでございますか……?」
気遣わしげな声が部屋より響く。桔梗の声はいつもきびきびと張っているが、その声はとても優しげに聞こえた。
「ん……桔梗……」
弱々しい少女の声。未だ夢の中から抜け切らぬのか、ぼんやりとしている。
「なんだか……、すごく眠いの……」
話しながら今にでも眠りについてしまいそうな声だった。と、ふとくぐもった猫の声がニャアと聞こえた。
そっと視線を部屋の中に向けると、殿の褥の隙間から白い耳が飛び出した。
「白眉……?」
するりと布団の中から身体を出し、かざされたの指先をぺろぺろと舐める。その姿はあどけない猫そのもの。とても物の怪の類には見えない。
桔梗がわずかに苦笑を漏らした。
「白眉。ご主人様はご病気なのよ。邪魔をしないよう、わたくしと一緒にいましょうね」
そして、桔梗が猫を捕まえようとすると、猫は桔梗の腕をするりと抜けて廊下へと飛び出た。
ニャァン。
猫が私を見て一鳴きする。と、庭先へ降りて、軽やかな足取りで逃げていってしまった。
「ここは私が」
そうすばやく告げると、私は猫の後を追った。
こちらは早歩きで追っているというのに、猫は縁の下や屋根に上りなかなか尻尾をつかませない。私とて闇に名を連ねる者としてそれなりに機敏さには自信があるのだが。すっかり猫に遊ばれて、私が猫に追いついた時には日が沈みかけていた。
猫がとととっと足を慣らして屋敷の角を折れた。
しめた、この先は袋小路――――
私は歩を早めその角を折れようとしたが、その時、目の前で信じられない事が起こった。
西日に照らされ地面に伸びた猫の影が、うにょんと、まるで水飴のように伸びたのである。
そして影は地面を這い、人影を形作った。
まさか――――
私は唖然とし、急いで角を曲がった。
すると、そこには金銀妖瞳の青年が立っていたのである。
灰色の着流しに、腰に差した脇差。老人のように白い髪は、今は藍色と朱色の混じる夕暮れを受けて、きらきらと輝いている。
そしてこのかんばせ。何という事だろうか。記録係として幾多の美男、美女を見てきたが、このような妖しい色気を醸す青年など今だかつて目にした事がなかった。
間違いない。これはあやかしである。
私は咄嗟に悟った。
青年は私を一瞥すると目を細め、そしてきびすを返した。
「ま、待てっ!」
私は声を張り上げ、青年に追い縋った。だが、青年は私を一目も振り返らないまま、ぐっと膝を落とし、跳んだ。
ふわりと、まるで天狗のように。
そして屋根をすたすたと渡ったかと思うと、私が一瞬きした隙に、どこぞなりへと消えてしまったのだった。
「やっぱりあやかしの仕業かぁ」
私の報告を受け、竹中様は深いため息をついた。
だが、そのわりには驚いた様子はなく、むしろ確信を深めたといった風だった。
「私が付いていながら逃がしてしまうとは……申し訳ございません」
床に手を付き頭を下げると、竹中様がいいよいいよ、と軽い調子で手を振って仰った。
「あいつ、性格悪いからなぁ。自分を捕まえに来るの分かってて、からかったんだろうね」
「はあ」
やはり猫に遊ばれていたか。しかし、化け猫を性格悪いなどと言ってのける竹中様も中々である。
「でも、あんなのでもの大切な猫だし、蔵の中に閉じ込めるくらいにしておきたかったんだけどね。そうすればもしかしたら、の眠りも覚めるんじゃないかって」
「と、仰いますと……」
「やるしかないでしょ。物の怪退治」
竹中様はしごく当然と言った口調でさらりと仰った。
「は……しかし、物の怪などどのように退治すれば」
「問題ないよ。敵の正体が分かっていれば百戦危うからず」
うろたえる私の前に竹中様は一冊の書物を差し出した。薄ぼけた抹茶色の表紙にかすれた文字で『山海経』とあった。
「これは……」
「記録係のあなたには釈迦に説法かもしれないけど、大陸に伝わる古の地理書だよ。神仙や妖魔についても詳しくてね、そこに『金華猫』の記述がある」
「金華猫……」
かつて耳にした事がある。
唐の金華山に住まう猫は、月の精気を浴び続けると魔性に変化すると言うのである。そして夜になると姿を現し、人を誑かす。
相手が男であれば美女に、女であれば美青年になって近寄り、たぶらかされた者は正気を失う。そして、やがて目覚めなくなってしまうのだ。それを治すには原因となった猫を探し、退治しなければならない。でなければ、永久に眠ったままだ。
「まさか、白眉を……」
私は思わず口を塞いだ。いくら物の怪とは言え、可愛がっていた愛猫が死んだと知れば、あのお方はどれほど悲しむだろう。
だが、竹中様はあえて聞こえない振りをした。
私はこの飄々とした方の覚悟を垣間見たような気がした。どれほど殿が悲しもうと、その命には代えられない。
「わかりました。どうか私もお供させてください」
ならばせめて……私がその役を担うべきだ。竹中様が手を下されるより幾らかましだろう。
また聞こえない振りをされるかと思いきや、竹中様は苦笑を浮かべると、ありがとう、と礼を述べられた。
end
えせファンタジー第二話。
『金華猫』という妖怪の話は本当ですが、
『山海経』に記述があるかは分からないのでそこはフィクションでお願いします……。
たぶんない。
寝た人間を目覚めさせるには、本当は退治じゃなくて金華猫の肉を食わせるだけど、
さすがにそれはグロいのでやめました。