Text

 この耳はいつまであなたの声を聞くことができるのだろう。
 この足はいつまであなたを追いかけることができるのだろう。
 この胸はいつまであなたの温もりを感じられるだろう。
 この目は、この顔は、この頬は……いつまであなたへ。


 微笑を送る事が、出来るのでしょうか――――




祈り B面・前編





 ずきりと瞳の奥を刺すような痛みに、そろそろ潮時なのだと知る。他愛も無い命だったと、今更のようにその人生を自嘲した。瞳の異変に気付いたのは、年の瀬の頃だ。鳶色の瞳が次第に色褪せ、それと共に視力を失った。思えばその頃から、己の命は長くないのだと感づいていたのだろう。生きた証を残すようにがむしゃらに執務に没頭し、勉学に勤しんだ。
 冷静を保っていた己がまるで熱に浮かされたようになる度、ふともう一人の自分が問う。
 お前は軍師として命を終わらせることに、一体どれだけの価値を見いだしているのか…と。
 この国が悠久の時を経て時代が歴史へと変わる時、後の人々が己の所業を知っていることにどれだけの意味があるのだろうか。六道輪廻も信じていない自分が、後世に馳せる夢など泡沫のそれと大して変わらぬというのに。
「今を生きよ、か」
 熱に浮かされたように生き急ぐに、官兵衛がそう告げた。病の事は伏せているが、おそらくの中の何かしらの変化に気づいての事だろう。お前の目は今を見ておらぬ、心はどこか遠い彼方へあくがってしまったようだな、と。
 遠い彼方を黄泉とするなら、あくがるとは言い得て妙である。死など望んでいないが、最近無意識の内に死後の世界を思う事が多くなった。

 己の名を呼ぶ声に、は己の瞳の色を見咎められたのかと思った。だが、振り返ってそこに立つ青年は、いつもの飄々とした顔をしている。どうやら違うらしいと安堵していると、再び己の名を呼ばれた。
、また徹夜したんだってね」
 呆れたように放たれるため息。わずかに訝るような雰囲気を含んでいる。
 大丈夫です、と手短に返せば、漆黒の瞳に不審さが増す。
「仕事熱心なのはいいけど、倒れたりしたらおねね様が心配するよ。軍師だったら、体調管理も仕事のうち」
 わざわざ――――心配するねねのために苦言を言いに来たのか。半兵衛の気遣いに思わず心がほころんだ。一見気にしていない風で、実は周りの事をしっかりと見ているのだ。
 だがそれ故に――――たまに、側にいるのが苦しくなるのだ。
 この病を気付かれたくない。なのに、半兵衛は優しいから――――こうして気遣っては、声をかけてくれるのだ。
 だが、その優しさが今は怖かった。本当は怖くてどうしようもないこの感情が、の冷静な表情をあっさりと剥いでしまう。
 感情がむき出しになる。
 優しい半兵衛に、病に侵されるこの心を知ってほしいと暗い感情があふれ出しそうになる。
 だから、最近では極力距離を取る様にした。
 そうしないと――――自分はきっと正気を保っていられない。
 半兵衛が心配そうな顔をするので、わかっています、と適当に返事をした。納得していないような顔を半兵衛はしたが、
「それと……」
 と呟いて、口を噤んだ。
「なんでしょう?」
 の訝るような視線に、半兵衛は考えるような素振りを見せた。眉根をしかめ何かを言いかけたが――――やがて、何でもないや、とそれを打ち切った。
 手を振って去っていくその背中――――
 昼寝に戻るのだろうか。
 その肩を、腕を引いて、縋り付きたかったが――――虚空をもがいた指先は、半兵衛に触れることは叶わなかった。





「何もこんな所に来てまで仕事をしなくたって……」
 元就の呆れるようなため息を無視して、はがりがりと書に筆を走らせた。屋敷で働くとねねに心配をかけるので、わざわざ仕事道具を持参して元就の隠居部屋に篭る。
 文句を言いながらもの心境を察して、場所を提供してくれるのは有難かった。
 ――――と、瞳に痛みを感じて、は筆を止めた。
「痛むのかい?」
 元就がの向かいに座り、の顎を上向かせて瞳を覗き込んだ。
 鳶色だった瞳の色は薄れ、光に当てると茶と碧の合間のような黄朽葉色の瞳が輝く。
 こうして見るとますます神がかって見える――――
 まるで鬼の目のような金の瞳は、ため息が漏れるほど美しかった。
「こんなになるまで働く必要があるのかな」
 痛みによって零れ落ちる涙を指先で掬い上げて、元就は呟く。
 視力が落ちていると言っていた。千里眼を持つ常世姫にとって、視力が落ちるとは存在を危うくさせる大事である。証拠に、視力を失うと共に、の身体からまるで生の気まで落ちていってしまっている気がする。頻繁に眩暈を起こすようになり、次に高熱が。最近では、少し動いただけで身体がへばってしまう。
 さじ医師に診せても、原因は特定できないだろう。常世姫としての命が尽きようとしている――――それを医術で理解する事は難しい。
「もっと視点を変えてもいいんじゃないかな」
 元就の言葉には唇を噛み締めた。
 自分の生きた証を残そうとするように、躍起になって働く姿はさぞかし滑稽に映ることだろう。だが、それを立ち止まって見返している時間などない。にはもう、走りきるだけの時間しか残されていないのだ。
「結構です……どうせ、長生きできないんだし」
 暗い瞳でが呟くと、元就はがりがりと頭を掻き毟った。珍しく苛立っている。この男は口や表情にそれを表さない代わりに、まれに仕草に感情が見え隠れする。
「年頃の若い娘がそういう事をいうものじゃないよ」
「お説教、聴きたくない」
 は耳を塞いだが、元就の責めるような視線がを苛んだ。
「厭世を気取るにはまだ若すぎるんじゃないかな。私のような年寄りから見れば、のそれは逃げだよ」
 聴きたくなかった。癇癪を起こすように、じゃあ、とは声を張り上げる。
「元就公は二十歳そこらで、死ぬとわかっている娘の気持ちが分かるんですか? 同族にいけにえに差し出された気持ちは? 信じていたものに、首を落とされる気持ちは?」
 の事ではない。歴代の常世姫たちの末路――――夢に見る彼女たちの死に際を、は言葉にしている。
「私は……何度もそうやって死んでいった娘を知っているんです。何度も何度も繰り返し殺される……逃げ場なんて、どこにもなくて。怖くて、ただ悲しくて……」
 の金の双眸から涙が溢れた。
「私は……まだ、病で死ぬから幸せなのだと、そう思おうと……必死でっ」
「同じことを、半兵衛や官兵衛にも言うのかい?」
「っ……!」
 反論など出来様はずがなかった。それを分かって責め立てる元就の言葉は、の心を穿ち叩きのめす。
 常世姫は同じ魂が輪廻を繰り返す。それ故に、一代の命は短く、皆年若く散ってしまうのだ。
 死んでは生まれ、死んでは生まれるその繰り返しを、前世の記憶を夢に見て、悪夢のように囚われ続ける。
 逃れられるものなら逃れたいと――――思わぬはずがなかった。
「……そんなの、言えるはず、ないじゃないですかっ」
 は顔を覆って泣き崩れた。
 慰めるように元就の大きな手がの背を撫でた。
 その涙の一筋でも彼らに本音を伝える事が出来るならば――――そう思いながらも、の頑なな心を解かしきれない己の無力さを、元就は口惜しく感じていた。



end


ヒロインサイドです。
実は命が危ないのはヒロインも同じ、という展開。
大殿の隠居部屋は駆け込み寺です。