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 この声はいつまであなたの名を呼ぶことができるのだろう。
 この両手はいつまであなたを、守ることができるのだろう。
 この頭はいつまであなたの事を記憶できるだろう。
 この耳は、この口は、この心臓は……いつまであなたと。


 共にいる事を、赦されるのでしょうか――――




祈り A面・後編





 月が西に傾く前に、茶屋を後にした。
 情事のあと女たちと懇ろになる事を嫌う質から、半兵衛はどんな夜も屋敷に帰って床に就く。再び褥に横になり、すべてを夢にしてしまおうとするように眠りに就くのだ。
 裏門に馬を止め、そのまま裏手から誰に会う事もなく屋敷へ入ろうとしたが、寝ずの番の下男に呼び止められた。下男はかがり火におろおろとした顔を浮かび上がらせ、
「その……お止めしたのですが、お客様が……」
 と口ごもった。
「客?」
 こんな時間に誰が、と訝かしむ。
「その……秀吉様の遣いだとかで、めっぽう綺麗なお嬢様が」
 その一言を耳にして、半兵衛は下男を押しのけるようにして中へ急いだ。
 廊下を踏み鳴らして客間に飛び込むと、縁側でじっと月を眺めるの姿があった。部屋に明かりはなく、月光が幻想的な風貌をより際立たせている。
「遅いお帰りですね……」
 は振り返らないまま告げた。
 力の入らない声。だが、妙に責められているように聞こえるのは、茶屋に通った後ろめたさばかりではないだろう。
「来るって知っているなら、早く帰っていたよ」
 動揺を悟られないように、軽い口調で返す。今までどこにいたのか、とは追及しなかった。もしかしたら、半兵衛の身体から微かに香る白粉の匂いを感じていたのかもしれない。
「秀吉様の遣いって?」
 尋ねると、は嘘です、と背中越しに答えた。
「あなたに会うための口実です。強引に中に押し入ったから、あの下男には悪いことをしました」
「驚いた。でもそんな事するんだ」
 茶化したつもりだったが、は笑わなかった。
 ゆっくりと振り返り、煌々と輝く瞳を向ける。
 月光を受けたそれは鳶色でも翡翠色でもなく、黄金に輝いているように見えた。
「最近、半兵衛様のよくない噂を聞きます。夜な夜な盛り場を歩き渡り、行きずりの女性と……」
 真剣な目だった。即興の嘘で謀れるものではないだろう。
 本当だよ、と正直に告げると、わずかにの瞳が揺らいだ。自分で口にしたくせに衝撃を受けている。
 そうですか、と力なさげにが呟いた。
「俺も男だから、独り寝が寂しい夜もあるよ。幻滅した?」
 はゆるゆると首を横に振ったが、落胆とも取れる表情は隠しようがなかった。生身の男と絵物語の貴公子の区別が付かない。この年頃の娘には良くあることだ。
 実際はそんなに綺麗なものなどではない。欲に浮かされた男が、どんなに浅ましく惨めなものか知ったら――――本当はこの熱を、欲を、滾りを、すべてにぶつけてしまいたいと半兵衛が思っていることを知ったら、は軽蔑するかもしれない。
 だが、それすらも覚悟の上で、その想いをぶつけてしまいたい衝動に駆られた。
 熱をすでに放った夜であるというのに、死を前にした男というのは必死なものだと自嘲する。
 畳の上に組み伏せ、泣き声も悲鳴もすべて無視して繋がりたいと、嗜虐的な欲がむくりと首をもたげる。は泣くだろう。泣きながら助けを請うだろう。それを薄ら笑いを浮かべて嬲る自分の姿を想像し、ぞわりと胸がざわついた。
……」
 名を呼んで、膝を進める。
……」
「はんべ、さま――――
 半兵衛の異変を感じ取って、が腰を浮かせかけた。
 素早く手首を取り繋ぎとめ、の足をまたぐ様に膝をついて動きを封じた。
 至近距離で交わる視線。
「俺はずっと、こうしたかった」
 頭を抱え込むように腕を絡め、吐息さえも飲み込むように唇を塞いだ。の瞳が危険信号を発するようにかちかちと光を放つ。
 必死に腕で半兵衛の身体を押しのけようとするが、その手首を力任せに掴みあげて、唇をさらに深く繋がるよう押し付けた。真一文字に結んだ唇をこじ開けて、舌を這わせて強く吸う。は呼吸困難の魚のように苦しげに口を動かしたが、わずかな呼吸の間隔の後に、すぐさま唇が重なりさらに深いものへと変わる。
 そしてもつれ合うようにして、二人の身体が床の上に重なった。
 まるで恋を覚えたての子供のような余裕のなさで、半兵衛はの身体をまさぐった。首筋に舌を這わせ次第へ下へと降りる。同時に指先で足を撫で、するすると裾をたくし上げた。
 が何か叫んでいる。泣いているようにも聞こえた。
 だが、半兵衛の耳には届かない。熱にうかされるように頭の芯がぼうっとして、ごうごうと耳鳴りが鼓膜を覆う。自分の荒い吐息ばかりが頭の中に響いた。
 まるで獣だ。情緒も風情も何もない。欲を埋めるためだけに、身体を擦り合わせる。
「触らないで!」
 その声だけが、なぜか鮮明に耳に届いた。
 は涙で顔を濡らし、精一杯の怒りを込めて半兵衛を睨み付けていた。
「あ……」
 身体中を巡っていた熱が、まるで風船が萎むように消えていく。
 自分は一体何をしようとした――――
 我に返り、愕然とする。
 着崩れした着物、はだけた着衣から覗く白い肌に荒々しくつけられた紅い痕、の涙で濡れた顔、暗闇に響く嗚咽。
 背徳感と罪悪感で吐き気がした。
 大切に、壊さぬようにと押さえつけて来た想いが、一気に溢れ出して何もかもを壊していく。
 全部台無しだ。ここまで耐えて、必死に押し隠してきたのに、堤が決壊した川のように何もかもを呑み込んでいく。
、ごめん。ごめんね……」
 今更、謝罪の言葉など何になろうか。失われた信頼は、決して戻ることはないだろう。未遂とはいえ、嫌がる女性を襲った。力任せに押し付け、好色な目でその身体を嬲った。
 赦される所業ではない。
 出来ることなら、今すぐにでも首を吊って死にたい気分だ。
 痛々しい肌を隠すように、はだけた着物を調え、半兵衛は身を引いた。
 もはや語る言葉はない。そのまま無言で立ち去ろうとしたが、が半兵衛の着物を引いた。
「触らないで。他の女の人を抱いたその手で、私に触れないで……」
「え――――
「嫌です。他の人を見ないで。触れないで。あなたにとって遊びでも、彼女たちはきっと本気になってしまう」
 これ以上、私のような哀れな女を増やさないでください――――
 の言葉の意味が分からず、半兵衛はの膝を跨いだまま、呆然と動きを止めた。
 それではまるで――――まるで馬鹿みたいではないか。

 半兵衛が手を伸ばすと、はいやと小さく悲鳴を上げて、半兵衛の手を跳ね除けた。
「お願い。私を見ないで」



end


焦って手を出しちゃった半兵衛と、実は嫉妬めらめらだったヒロイン。
B面に続きます。