春の嵐03
「君は……名は惜しくないのかい」
問われた意味が一瞬分からなかったのか、半兵衛はぱちりと瞬きを返した。
まるで年頃の娘のように、長い睫毛を揺らしてちょっと小首を傾げてみせる様が、怖いくらいに違和感がない。
「名前だよ。竹中半兵衛の名だ」
ああ、と半兵衛はさして興味もないと言った風に曖昧に声を上げると、惜しくないですね、と即答した。
「別に立身出世に興味があったわけでもないし、俺は寝て暮らせる世を実現できればそれでいいんです」
半兵衛がかつて目指し、願った世はすぐ間近にある。
信長公が死んで、明智光秀を討った秀吉は、信長の後継者としてその名声を高めて言った。柴田を倒し、徳川を降らせ、唯一抗戦を続けていた北条もいずれ城と共に落ちるだろう。
もはや、寝て暮らせる世は成ったも同然だ。
だからこそ半兵衛は戦線を退き、こうして私の隠居部屋で、年寄りの話し相手となっている。
の身代わりは初めこそは多大な混乱を皆に招いたが、一連の戦の中で半兵衛が受け継いだ千里眼の能力を発揮し、無理やりにその力を認めさせる事となったらしい。
秀吉や子飼い達は複雑だっただろう。
あの日、尽きるはずだった半兵衛の命をが助け、その代わりにが命を落としたのだから。それがの遺志に違いないと、懸命に思い込もうとしているだ。
官兵衛は――――秀吉達の混乱に反して落ち着いていた、と半兵衛は語った。の役割を半兵衛が担うようになり、戦力的に見るならば損失はなく、常日頃の事を道具だ駒だと言って人間性を無視していた官兵衛には、失う物がなかったという事になる。
だが、そう語った半兵衛を見つめつつ、私はううんと歯切れの悪い唸り声を上げた。
「そういう意味で言うなら……官兵衛は二つとも得て、二つとも失ったのだと思うけど」
「二つって?」
「の遺志も半兵衛の理想も叶えた。能力も引き継がれている。だけど、がいなくなるのと同時に、竹中半兵衛も失われてしまった」
その目を受け継いでしまったからね――――
私はじっと半兵衛の碧の瞳を見つめる。
「弟子と友人を同時に失って、痛みを感じないはずはないよ」
真剣に言ったつもりだったが、慰めに感じたのか、半兵衛は薄く笑みを浮かべて、どうかなぁ、と首を振った。
「そうだったら嬉しいけど。でも、ま、お気遣い感謝します」
軽く頭を下げて、再び視線を庭先の桜に向ける。
だが、瞳は別の物を映しているのだろう。煌々と碧の光が宿る双眸が、ぱちぱちと瞬きを繰り返している。
こうして見せる横顔は、まるでの面影を映したようにそっくりで――――私はそれを少し寂しく感じた。
半兵衛のあの悪戯っぽい笑みや、時折見せる年相応の表情を、もはや思い出の中でしか見られないのだと悟ったからだ。
そして同時に、だけの持っていた表情は半兵衛の顔と重なり合い、常世姫という抽象的な存在へと集約される。
半兵衛の顔もの顔も失われる。この顔は、誰の顔でもない。
白地に紅い模様の入った羽織は、妙に彼に馴染んでいて、
「私はね、半兵衛には青の方が似合うと思うよ。赤は――――」
「あれはにあげてしまったんです。だから俺はもう青い衣は着ません」
それが彼なりの決別なのだろうか。
と、そして自分自身への。
男なのに姫なんて笑っちゃいますけどね、と呟きながら、半兵衛は顔も名前も捨てたのだった。
「半兵衛」
名を呼ぶと、彼は首を横に振り、寂しげに笑った。
まるでがそうしていたように、瞳を伏せ目がちにして、
「俺にはもう、名など無いのです――――」
end
目の継承と共に、名を失った半兵衛。
何者でもなくなった半兵衛は、ヒロインの面影を負って常世姫として生きていく……
「春の嵐」シリーズこれにて完結です!
はっきりしない終わり方ですが、桜吹雪に覆われるように春の頃の曖昧さを感じていただければ幸いです。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました!