艶紅
顔を覗き込むように整った顔を寄せられて、呼吸が交わりそうなほど近くに感じる。それだけで顔が火照ってしまうというのに、柔らかな薬指がゆっくりと、焦らすように唇を撫でていくのだから堪らない。
「ねえ……、まだぁ?」
痺れを切らし口を開くと、動かないで下さい、と叱られてしまった。
紅を塗るは真剣そのもので、半兵衛のように照れた素振りなどない。じっと半兵衛の唇を見つめ、輪郭を確かめるように指を滑らせる。
茶化すような隙もない ――――
が、こんな風に弄ばれて、指と視線で散々に焦らされ、頭がどうにかなってしまいそうだ。よもや半兵衛が男である事を忘れているのではないか、と不安にさえなってしまう。今も胸がどきどきと高鳴って、ともすればこのまま畳みの上に押し倒してしまいそうだ。
事の発端は、半兵衛の女装にある。普段、女っぽいといわれると怒るくせに、この軍師は時たま女の格好で敵国視察や間諜の真似事のような事をする。かつての主君・斎藤 龍興から城を乗っ取る際も、存分にその手腕を発揮した。
よもや趣味なのではないか ――――
と口にすると陰湿な仕返しをされそうなので誰も口にはしないが、今でも度々女の格好をする事がある。さすがに簪やら紅やらは自前のものではないので誰か女性に借りるのだが、今回は恋人のに変装の手伝いを頼んだという次第である。
と ――――
「……っ」
うなじを指先が掠めて、半兵衛は思わずぶるりと背を震わせた。
鬘を整えるためにが背後に膝立ちになり、ゆっくりと櫛で髪をすいている。ただそれだけの事なのに、櫛の歯が上から下へと降りるたびに、身体をまさぐられるよりも濃厚な愛撫を受けているような気になってしまった。
唇に紅を塗って、おしろいを肌に乗せ、髪を梳いて簪で結い上げる。
たったそれだけのこと。なのに、そのすべてがの細い指先で、丁寧にされると、くすぐったい様な恥ずかしさに耳の先まで赤くなってしまった。
なんだろう……悪戯されてるみたい ――――
本人は真剣そのもので、半兵衛自身が頼んだことで、一応仕事のためであって。
弁解するように胸中で呟いてみても、の指先が肌を掠めるだけでぶるりと肩をすくませてしまう。まるで初めて男に触れられたおぼこのようだ。
「半兵衛様、緊張してます?」
ふいに尋ねられ、半兵衛は思わず上ずった声を上げた。
「へっ? あ、いあ」
「なんだかカチカチに固まっていらっしゃるので」
「そ、そうかな!?」
「肩に力が入るとうまく髪を結えません。もっと、力を抜いて」
すっと力んだ肩をほぐすように、の指先がうなじに触れた。ひぁっと変な声を上げてしまい、驚いた顔のの目が合う。
びくびくと虐められた小動物のような涙ぐんだ目。
その半兵衛の瞳をじっと見据え、何かを察したようにの唇に愉悦の笑みが浮かんだ。
「ふふっ、どうなさったのですか半兵衛様?」
妖艶な笑みを浮かべ、の指先がすっと半兵衛の首筋を撫でた。思わず浮き上がった身体を逃さないように、は背後から器用に腕を絡める。
「なっ、なん、何してんの」
「白粉を塗っているだけですよ?」
「そりゃっ……そうだけど! だったら何でそんな風に密着する必要があるわけ!?」
「半兵衛様が逃げるから。ほら、汗をかかれたから白粉が落ちてしまいました」
嘘だ! と、喉元まで出かかった言葉を、半兵衛は飲み込む。
の指先が首筋を撫で、頬を撫で、顎先を伝う。
ゆっくりと優しく、羽先で撫でるように、丁寧に、緩慢なほどに。
「ぅ……ちょっ、もう止めてよ……」
びくびくと身体を震わせ、半兵衛は熱の籠もった目を吊り上げた。だが、はくすくすと笑いながら、そ知らぬ顔をする。
「何故です? なにも変な事はしていないでしょう?」
「へん、な事って……どうゆう、意味……」
「普段、半兵衛様が私に為さるような事です。お願いしても、なかなか赦してくださらないでしょう?」
だからこれは、仕返しです ――――
ふふっと笑みを零し、はまるで鶏の首をしめるようにきゅっと半兵衛の背を背後から包み込んだ。温かい体温を間近に感じた瞬間、柔らかな感触が耳のすぐ真裏に触れた。
ちゅっと小さな音を立てて、口付けられたのだと気づいた時には、脳も胸も爆発しそうになっていて ――――
「えっ?」
途端に反転した視界に、が短い声を上げる。
形勢逆転とばかりに、頭上には顔を真っ赤にした半兵衛の顔。畳の上に縫い付けるように、の両肩を両手で捉え話さない。
やり過ぎた、とが自覚したその時にはすでに後の祭り。
「、俺のこと苛め過ぎ」
頭上から降ってくる声は、いくぶんか冷静さを取り戻しつつも怒りをわずかに滲ませていた。
「あっ、あの、ごめんなさい、少しからかいすぎました」
はやんわりと半兵衛の手を押し返そうとしたが、それはびくともしなかった。女の格好をしていても、力の差は歴然。の細腕で敵うものではない。
「ふ〜ん、少し?」
「え、えっと……だいぶ……?」
「ふうん。だいぶ俺のこと煽ってくれたよねぇ? もしかして、誘ってた?」
半兵衛の女に化けた指先が、ゆっくりとの首筋を撫で、合わせた着物の襟をくつろげていく。ち、違います! と首をぶんぶんと横に振るが、からかわれたのが大分悔しかったのか、今度はこちらが捕食者のような顔で、悪い笑みを浮かべてを見下ろした。
「据え膳食わぬは男の恥っていうけど、俺は今、女の格好。さて……どうしてやろうかなぁ?」
「食べなくていいです、食べなくて! 着崩れちゃうし、化粧も落ちちゃうし、髪も……っ」
言いかけた瞬間、紅を塗った唇に口を塞がれて、は言葉ごと飲み込まれてしまった。
存分に口付けを楽しんだ後、半兵衛は切なげなため息を漏らし、ぐったりと力なく寝そべったの身体に覆いかぶさる。自分の唇から紅がうつったのか、ほんのりと紅く色づいたの唇を舌先で舐め、
「俺の口紅、にももっと分けてあげるよ」
ゆっくりと獲物を追い詰めるような緩慢さで、唇を寄せたのだった。
end
期間終了したので再録です。