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 その娘のことを、よく知っているわけではなかった。元就が特別気に入っていたから、少し気にしたくらいだ。
 両兵衛と共に元就の下へ現れる少女。軍師見習いと聞いていた。妙に線が細く、初めはこんな細腕で戦えるのかと訝ったほどだ。
 まじまじと見ていると白い軍師の方が煩いので、盗み見るように見ていた。若いくせに妙に落ち着いたところがあるような――――そのくせ、時折童女のように笑う姿が印象的だった。




魔が差す





「うわ……すごい蔵書の数ですね」
 と、埃の詰まった書架を眺めながらが感嘆の声を上げた。元就の隠居部屋の側にある土蔵の中。薄暗闇の中で古びた表紙の本が所狭しと詰まっている。
 早く済ませてしまいましょう、とは袖まくりをして、ずんずんと中へ入っていく。
 事の発端は、元就が蔵書が見つからないと騒ぎ出した事だった。あれだけ部屋が汚いのだからそりゃあ見つからないでしょう、と一同が呆れる中、あれがないと執筆が進まないのだと最年長者にあるまじき駄々をこねて一同を動かしたのだった。むしろ執筆が進まない方が世のためだと毒づくァ千代を除き、運悪くその場に居合わせてしまった両兵衛と、宗茂はなくなった書物を元就と一緒に探しているのである。
 念のため蔵も見てきてくれるかな、と言われが蔵の鍵を扱ったのだが、の身長では書架に届かないという理由で宗茂が呼ばれた。当然、半兵衛は宗茂がと二人きりになる事をぴーぴーと怒っていたが、宗茂は涼しい顔でそれを無視して蔵へやって来たのだった。
「あ、この棚です」
 今にも崩れ落ちそうな棚の前で、が足を止めた。爪先立ちになり手を伸ばすが、あともう少しの所で届かない。
 その様子が子供のようで、宗茂はくすりと笑みを零すと、の手を伸ばした本をひょいと掴んだ。
「これか?」
「あ……りがとうございます」
 宗茂に本を手渡され、は少し顔を驚かせていた。
「何か?」
 と、訝ると、はもごもごと口ごもりながら、
「えっと……親切にしていただけると、思わなかったので」
 今度は宗茂がきょとんと目を丸める番だった。
 どうやら半兵衛と仲が悪いのを、毛利・織田の勢力関係が故と勘違いしていたらしい。
「心外だな。俺はいつまでも昔の戦を引きずるほど餓鬼じゃない。それに女性には優しく接しているつもりだが?」
「そう……なのですが。その、半兵衛様が……」
 言いかけて、しまったとは口を噤んだ。
 宗茂はにこにこと愛想のいい顔を浮かべながら、続けて? と先を促す。
「えと……宗茂は性格が悪いし極度の女ったらしだから、無闇に近づいちゃ駄目だよ、って……」
 あのくそ餓鬼――――
 宗茂は笑顔を貼り付けたまま、手をかけていた書架の柱をぎゅっと握り締めた。
 性格が悪いのは一体どっちだ。いたいけな少女によからぬ事を吹き込んでいる上に、自分こそ年甲斐もなく小娘にでれでれしているではないか。
「あ、あの、きっと冗談! 冗談ですから……!」
 と、宗茂の発する黒い空気を察してか、が弁解する。
「もちろん、こんな事で怒るほど俺は餓鬼じゃない」
 と、さわやかな笑顔を浮かべるものの、は実は怒っているのではないかとどきどきと胸を鳴らしていた。
「ああ、これやっぱり違います……」
 土蔵の窓から差し込む光に表紙を宛て、が呟く。やはり元就の探している本は、あの本の山の中にあるのだろう。
 無駄足になっちゃいましたね、とが苦笑を零して、本を宗茂に返した。それを受け取って元あった場所へ戻すと――――
 ぎしり、と書架が大きく揺れた。
 え、とが声を発するよりも早く、大量の本が雪崩のように二人を襲った。宗茂はとっさにをかばい、その身体の上に覆いかぶさる。
「う……」
「大丈夫か?」
 押し倒された時、頭をしたたかに打ったのか、身体の下でが呻き声を上げた。はっと目を開け、
「す、すみません、すぐどきます!」
 と、身体を捻じる。が、そうは言っても、本に埋もれ、頭上に宗茂が覆いかぶさった状態では動く事すらできまい。の両足は宗茂の身体の真下だ。
 小さい身体だな――――
 わたわたと慌てる目の前の身体を、宗茂はぼんやりと見つめていた。ァ千代よりも小さな、成熟しきらない少女の身体。
 こんな身体で戦場に立ち、将兵を動かし、戦に臨むのか。
 喩えるなら、魔が差したと――――
 ただ純粋に触れてみたいと思っただけだった。妻のことも、小うるさい軍師のことも、元就も官兵衛も、存在を忘れ、ただそう感じた。
 すでに組み敷いた身体の上に、己の身体を折り曲げ、その唇に己のそれを押し合てた。
 互いに目も閉じず、触れるような口付けに、少女の瞳が、揺れた――――
「失礼」
 と、口付けを終えてから、確信犯の顔で告げた。
 は信じられないといった顔で宗茂を見つめ、次の瞬間――――思い切り宗茂の腹を蹴り飛ばした。
「くっ、暴れるな。本が落ちる」
「な、なななななな、何を! 無礼なっ!」
「だから失礼と断った」
「そういう問題ではないでしょう!? 仮にも私は織田家家臣、元就公の下には客人として招かれたのであって……ああ、もうっ!!」
 やっぱりあなたは半兵衛様の言うとおりの方です!
 噛み付くような勢いでが叫んだ。
 別に、悋気というわけではなかったのだと思う。だが、が半兵衛の名を呼んだのが、なぜか癪に障り、今度は逃げられないように顔を掴み上げて、その唇を吸い上げた。
「んっ……んんっ」
 先ほどのものとは異なる口内を暴くような乱暴なそれに、の瞳が苦しげに歪む。
 おそらく非道な事をしているのだろう。
 己を親切と言った少女を、劣情のままに組み敷き、無遠慮に口内を弄っているのだから。
 だが、少女の初心な反応から、男をろくに知らないのだとわかると、知れず笑みが零れた。
 と、その時、が渾身の力で手を引いたかと思うと、袖下に忍ばせた飛刀が宗茂の頬を掠めた。
 続いて胸に向かって伸ばされたそれを避けるよう、宗茂が身体を退くと、背に乗った本がばさばさと床に落ちた。
「下がりなさいっ!」
 厳しい声音と共に、見開かれた双眸の色が褪せ、みるみるうちにそれは翡翠の色に変わる。
 話に聞く、千里の彼方も見据える常世の瞳。
 ああ、元就公もこの目に惑わされたのか――――
 そんな事をぼんやりと思っていると、土蔵の外から元就や半兵衛の声が響いた。どうやら轟音を耳にして駆けつけて来たらしい。
「物騒な物は仕舞った方がいいのではないか?」
 がきっと宗茂を睨み付けた。だが、宗茂が何を言わんとしているか、が分からぬはずがない。
 拍子とはいえ、毛利と織田に名を連ねる者が、刃傷沙汰とは好ましくない。薄氷の上になった和睦に妙な傷をつけるのは、二人にとっても歓迎すべき事態ではなかった。
 は唇をかみ締めて、飛刀を袖下に仕舞った。宗茂の顔に浮かんだ満足げな笑みを忌々しげに睨み付け、はやはりこの男は性悪だと認識を新たにした。





 結局、埃まみれでと土蔵から出てきた宗茂に、一体何をしたと半兵衛が突っかかり――――書架が壊れたのです、と誤解は解いたものの、そのまま留まるのも心苦しく織田一行は早々に元就の隠居部屋を後にした。
 探していた本は結局、元就の部屋から見つかりまずはひと段落。自分らも暇を請おうとしたところ、元就が宗茂を呼び止めた。
「あまりあの子を苛めないでくれるかな」
 と、顔は文机を向いたまま、語りかけられる。
「何があったのかご存知なので?」
「詳しくは分からないが、のあの態度を見るに、君が変なちょっかいを出したんじゃないのかな」
 これは恐れ入る――――
 土蔵から出てきたは顔は蒼白なものの、いつもと同じように振舞っていたはずだ。半兵衛が騒ぎ立てたおかげで尚更、不自然さは払拭されたと思っていたが、元就の慧眼は誤魔化せなかったらしい。
「なに――――ちょっと魔が差しただけですよ」
 と、涼しい顔で言うと、元就はそれ以上追及せず、そうかい、と間延びした返事を返した。



end



あわわわ、宗茂を強姦魔(未遂)にしてすみません!
なんか涼しい顔で大胆なことをしそうだなこの人、と思ったらこんな話に。
そして、ァちゃん。空気でごめんよ。