この物語は「時限廻廊」のスピンオフ作品です。
ネタバレとまではいきませんが、「時限廻廊」を読んでいないと意味不明な箇所があるかもしれません。
未読の方は、先に「時限廻廊」を読まれる事をお勧めします。
狂言廻廊05
官兵衛の再びのおとないは夜半になった。
――――否、世界軸をずらしたのだから、先の訪問は無くなり、時間的には戻った事になるのだろう。
家人が夜分なのでと押し留めたが、官兵衛はそれを押し切って来たらしい。耳に届く足音に余裕がない。実に官兵衛らしくない騒音だ。
襖を張り倒すような勢いで官兵衛がそれを開くと、元就のいつもの微笑が彼を出迎えた。
「すまないね。君が来るからと言っておいたんだけれど、止められたんじゃないかな。まあ、私もいい加減年だからね」
老人は寝るのが早いんだよ、そんな事を笑いながら続けると、その首元に官兵衛のひやりと冷たい手の平が押し当てられた。
力は込めない。が、少しでも元就がふざけた言動を取れば、すぐさま喉を握りつぶそうとするような勢いだ。
「あれに……何をした」
押し殺した声で官兵衛が問う。
「あれ、とは?」
「の事だ。まさか当人まで忘れたなどと言うのではないだろうな」
鋭い視線が間近で元就を射抜いた。
もちろん忘れるはずが無い。彼女は己の創作なのだ。この頭が首の上に乗っている以上、その存在がかき消される事はない。
だが――――元就と官兵衛以外の人間は。この世界に放たれた狂言に気づかぬ人々は。
「これで信じてもらえるかな、官兵衛」
「卿の戯言をか」
「最初は戯言でも、今は真実だよ。“は存在しない”――――今はこれがこの世界の真実なんだ」
あの後――――元就はそう、口にしただけだった。
何の劇的な変化も無く、官兵衛にはやはり元就の言葉は胡散臭く聞こえた。
だが、元就に進められるまま秀吉の屋敷に戻り、そこで初めて違和感に気づく。
が居ない――――
いつも居るはずの執務室に姿が無い。が使っていた文机の上の私物が、綺麗さっぱり無くなっている。
怪訝に思い半兵衛に尋ねると、半兵衛は小首を傾げてこう言ったのだ。
『誰の事を言ってるの、官兵衛殿? 俺そんな子、知らないよ』
官兵衛は大いに混乱した。
誰に聞いてもの事など知らないと言う。
ねねはうちの子は三成と清正と正則の三人だけだよと言い、秀吉は娘がいたらもう少しこの家も華やかじゃったんだがなぁと笑った。
誰も知らない。
ならば、の残した形跡はないかと前に書かせた報告書を開くと、そこにはミミズののた打ち回ったような文字が埋められていた。よく見慣れた半兵衛の文字。それ面倒だったんだよう、と半兵衛が片隅で文句を言っているが、そんな事は官兵衛の耳には届かなかった。
書き換えられているのだ。
の存在が、残したものが、すべて無かった事になっている。
元就の発した嘘が――――この世の真実になったのだ。
その瞬間、官兵衛は屋敷を飛び出し、毛利に向けて馬を走らせていた。
道中ずっと元就の語った言葉を反芻して考えていたが、答えなど出ようはずが無い。
有り得ない。人間一人がこんなにも簡単に消えてしまうなど、あってなるものか。は椿とは違う。元就の並べた屁理屈とは違うのだ。
ちゃんと生きた、血潮の通った、十数年の人生を歩んだ一個の人間として――――官兵衛が長年連れ添った大切な弟子だった。
なのに、それは全て元就の口から発せられた嘘だというのか。
「巫山戯るな」
知れず官兵衛の指先には力が篭っていた。
だが、元就は涼やかな顔で官兵衛の蒼白な顔を見返している。
「心配しなくてもいいよ。もう一度、嘘をつけばそれが本当になる。君は何も失ったり、」
「黙れ」
官兵衛の鋭い眼光が、元就の言葉を押し留めた。
「一体何のつもりだ。己があれの神だとでも言いたいのか? 実に下らぬ……、唾棄すべき愚かさだ。虫唾が走る」
「官兵衛」
「言葉一つで世界が都合よく書き換わるだと? 巫山戯るな。あれが今までどんな思いで生きてきたと思う。何を思って生きてきたと思う。私が、一体……何年……」
瞬間、官兵衛の指先から力が失せた。ずるりと落下するように脱力した腕が落ちる。
憤ってはいるが、それは同時に元就の力と、という虚言の存在を認めた事に他ならなかった。
「官兵衛……。悪かったよ」
元就は素直に詫びた。官兵衛が不快に思う事は予測の範囲内だが、ここまで激しく憤怒するのは想定外だった。そこまで強く、の存在が人々に影響を与えている事を彼は知らなかったのだ。
「すまない……。私は……自分の思い通りになると思って、君や周りの人間の気持ちを軽んじてしまった。一時的とは言え、を消してしまったのは軽率だったよ。本当に……悪い事をしたね」
「いや……こちらこそ、取り乱して悪かった」
「すぐにあの子を君に返そう」
元就は居住まいを正すと、官兵衛の目の前で先日の言葉を打ち消す言葉を口にした。
“は存在する”――――たったそれだけの言葉が、目に見えない場所で世界を再び書き換える。
「……戻ったのか」
「ああ。きっと屋敷に帰れば、が出迎えてくれるよ」
官兵衛は小さく安堵の吐息を付いた。
何も変わらない。元通りになったのだ。
だが――――一抹の不安が胸の辺りに暗澹たる黒雲となって広がる。
は存在しない。それは真実だ。
喩え元就の不可思議な力で、世界と、そこに住まう多くの人々にの存在が認められたとしても、それが元就の創作である事は紛れもない事実――――元就と官兵衛にとっては、それが真実なのだ。
「卿は……何故こんな事をしている」
官兵衛の質問に、元就は僅かに苦笑を浮かべた顔で応える。
「老後の慰みに、と言ったら怒られると思うけど、でも、きっかけは本当にそうなんだ。何気ない空想からあの子は生まれたんだよ。それがいつの頃からか顔を持ち、名を得て、やがて私の前に現れた」
元就の主観では、それはたった一年足らずの事でしかない。
彼が病を患ってから、病床で持て余した時間を使い、一つ一つは隙間を埋めるように創られていった。
「どうしてこんな力が備わったのかは分からないし、最初は風評を広める能力なのかと勘違いしていたんだ。だけど、ある日、空想があちらから私に会いに来た。あの時は本当に驚いたけれど――――実はそれ以上にとても嬉しかったんだ」
元就はその日の光景を思い浮かべるように目を細めた。
官兵衛にとっても真新しい記憶である。をこの場に連れて来たのは、官兵衛自身なのである。その時は単に、弟子の軍師見習いを紹介するという心積もりしかなかった。
「それからは……とても楽しかったよ。不思議だね。あの子は私から生まれたのに、まれに私の予測の範疇から抜け出してしまう事があるんだよ。私の謎かけに、いつも必死に頭を悩まして、面白い答えを聞かせてくれる」
「……子がいつも親の予想通りに動くわけではないだろう。喩えあれが卿の人形だとしても、もはや一個の人間として損傷ない」
「人形を繰るうちに、自我が芽生えたということかな……。君達のところで上手くやれているのなら、もう――――人形師は必要ないね」
何気ない元就の一言に、官兵衛は怪訝そうな目を向けた。
卿は、と言いかけて口を噤む。元就の言わんとしている事を察したのだろう。
「官兵衛の想像通りだよ」
と、元就はいつもの微笑を向けた。
好々爺と呼ぶには年齢不詳なその顔を、官兵衛はわずかに目を見開いて見据える。
「あの子の将来をちゃんと見届けたかったんだけどね。私の方が先に舞台から降りなくてはいけないようだよ」
その時、初めて官兵衛は元就の白く、静脈の浮かんだ手首をまじまじと間近で見つめた気がした。
end
自我の芽生えた人形と人形師。
そろそろ閉幕のお時間のようです。
次回、最終話。