この物語は「時限廻廊」のスピンオフ作品です。
ネタバレとまではいきませんが、「時限廻廊」を読んでいないと意味不明な箇所があるかもしれません。
未読の方は、先に「時限廻廊」を読まれる事をお勧めします。
この世は地獄か、天国か。
夢を夢と知っている事が幸せなのか、夢と知らず現との区別がないまま暮らす事が幸せなのか。
この閉じられた世界で、官兵衛はただ、それだけを考えている。
都合の良い嘘で固められた、この生ぬるい湯水のような世界は――――果たして地獄か、天国か。
夢幻廻廊
その綻びは、ある日突然、訪れる。
まるで壊れたからくり人形のように、それはある日唐突に、動かなくなってしまうのだ。
「……?」
桜の花びらがひらり、ひらりと――――地面に伏したの顔を彩るように降り積もる。
半兵衛は地面にぺたりと両膝を付いて、呆然との顔を見つめている。
閉じられた桜貝のようなまぶた、頬は白く、長い睫毛が目元に影を作る。
「……」
ゆっくりと、震える手での身体を抱き起こす。
と、の身体はまるで石膏で作られたように冷たく固い。
ついさっきまで、くるくると表情を変え、舞うように動いていたというのに――――今はまるで木偶のようだ。
「どうして……何が」
呆然とする半兵衛の背後に、官兵衛が立つ。その影にゆっくりと振り返り、呆けた顔で問う。
「ねえ、官兵衛殿……。が、息してない……」
息どころか、体温さえない。血潮も流れていない。
これは、生き物ではない――――物だ。
どうして、と半兵衛は呆けた顔で繰り返す。
「話を……していただけなのに。去年の桜より綺麗だねって、話を……」
「それで、どうした」
その瞬間、半兵衛は頭痛を覚えた。
昨年の春の出来事が何故か思い出せない。この薄紅色の桜を確かに見上げたはずなのに、と――――と?
「俺、去年の桜の事をに聞いたんだよ。一緒に花見に来たよねって? でも、は首を振って……」
思い出さないで――――
はそう言った。悲しげな顔で。
だが、半兵衛の頭痛は強くなり、半兵衛の脳裏が薄紅色の花弁で埋め尽くされる。
記憶の中で、半兵衛はと花見に来ていた。何年も前から、ずっと繰り返してきた習慣。昨年だけ、と来なかったなどありえない。
なのに――――何故か、風景が揺れるのだ。
半兵衛の側にはいつもがいる。片時も離れず、側に居る。半兵衛が望む時、望む場所、望む形で――――居る、はずなのに。
「俺……思い出せなかったんだ。去年もと桜を見に来たはずなのに、がどんな着物を着ていたとか、どんな髪型だったとか……曖昧で、ぼんやりしてて……」
思い出そうとすればするほど、頭痛がひどくなる。
やめて、とがかぶりを振る――――
『お願い、私を否定しないで。拒まないで。私を――――信じて』
の頬を伝う涙を半兵衛は呆然と眺め、そして一つの情景を思い出す。
桜の木下に、大きな穴が穿たれる情景を。
黒い服を纏った人々。顔を覆って泣き崩れる女たち。
男衆が白いひのきの箱を担いできて、その穴に安置する。
箱の蓋には小窓が付いていて、その窓の向こうには――――
「……」
石膏で固められたような白い顔が、覗いていた。
半兵衛は両手で口元を覆って、地面に崩れ落ちた。
途端に木偶のように固かったの身体が、爪先から崩れて行く。細かい渇いた灰になって、春風に攫われていく――――
「……、嫌だ……行っちゃ駄目だ!」
半兵衛は消えていくの姿を留めようとするように、の身体に縋りついた。だが、風に吹かれた場所からどんどん、の身体は崩れて行ってしまう。
そして後には、の纏っていた紅い打掛だけがそこに残された。
それをかき抱いて、半兵衛は慟哭する。
「どう……して……。そんな……、俺……」
官兵衛は慰めるように半兵衛の傍らに膝を付くと、その肩に手を乗せた。
「かんべ、どの……」
半兵衛の涙に濡れた目が、縋りつくように官兵衛に向けられる。
官兵衛はひと頷きすると、視界を隠すように半兵衛の目をその手で覆った。
眠れ、と低い声で告げる――――
「は存在しない。は妄執だ。卿と私と、多くの者の生み出した幻想に過ぎぬ」
「かんべ、」
「だが、それを望む者がいるのならば、私は何度でもやり直そう。何度でも綻びを直そう。それが――――私の、この世界の調停者たる私の務めだ」
そして、半兵衛がもう一度名を呼ぶよりも早く、官兵衛はふうっと唇から吐息を漏らした。
その息吹が風となり、花嵐となり、桜色の花弁がぐるぐると視界を巡る。
嵐は徐々に風速を早め、ごうごうと風音を鳴らして――――そして、世界は桜の花びらと共に弾ける。
ぱっと花が散って、一陣の風が通り過ぎた後には。
「今年の桜は色が綺麗ですね」
手の平に桜の花びらを乗せ、がそれを差し出す。
「そうかなぁ? 去年の桜の色なんて覚えてないや」
「半兵衛様は花より団子ですもんね」
「だって」
そんな風に軽口を叩き合う二人の後を、官兵衛はゆっくりと付いて行く。
この世界では――――綻びはうまく修繕されたようだ。
桜の色がきっかけとなり、半兵衛が廻廊の外の記憶を思い出すこともない。
この世界は――――平和だ。
それに安堵しつつも、官兵衛の心には常に暗澹たる黒雲が広がっている。
幾たび、この世界をくり返したのか、もう覚えてすらいない。
幾たび、が人形のようになり、灰になって消えてしまったのか、もう数え切れなくなっている。
世界は巡る、季節は移ろう。
だが、この世界には戦はなく、争いもなく、時も存在しない。
同じ年を、移ろう四季を、ただ繰り返し、花鳥風月を愛で、大切な人々と何も無い平和な日々を過ごす。
それだけの、閉じられた世界。
幸せなのか、不幸せなのか、それすら分からない。
だが、が、半兵衛が、幸せそうに笑っていてくれるのなら――――きっと、この行為には意味があるのだ。
たとえ孤独であったとしても。
自分だけがこの世界と戦い、幾度も死と再生を向かえ、気の遠くなるような時間と記憶を有しているのだとしても、これはきっと幸せなのだ。
「来年も一緒に桜を見に来ましょうね!」
そう言って微笑んだに向って、官兵衛は柔らかな表情で頷いた。
end
「時限廻廊」とは別の繰り返す世界の物語。
官兵衛は誰かが廻廊の外のことを思い出すたび、世界をやり直しています。
何も変わらない世界――――それは地獄か天国か。