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時限廻廊・遠き恋文 後編





 ごほごほと咳き込むと、痰の中に紅い筋が混じっていた。
 官兵衛の前では病状は落ち着いているように見せたが、だいぶ良くない。
 官兵衛はまた来ると言っていたが――――きっともう、生きて言葉を交わすことはないだろう。
 官兵衛も毛利攻めで忙しい頃だろうし、半兵衛の命ももう幾分ももたない。
 必要なことは全て告げた。
 近い将来、信長が暗殺されるであろう事。何者がそれを実行に移すか分からないが、おそらく織田配下に違いないと言う事。
 その人物を半兵衛自身が唆したと言うならば、もっとも落としやすく、意外な人物、そして秀吉の天下取りの妨げになるであろう人物を選ぶはずだ。
 ならば、自然と候補は絞られてくる。
 柴田、徳川、前田――――そして明智。
 ここまで絞れれば、あとは官兵衛がうまくやってくれるだろう。それだけを祈り、半兵衛は褥の上に横になった。
 枕元に官兵衛に見せた恋文を置く。
 本当はこんなもの――――意味などないのだ。
 がしたためてくれた文は、この世界にはない。
 前の世界で、半兵衛の決心が揺らがぬよう書いてもらったあの文は――――半兵衛の記憶と共に、世界を越えることは出来なかった。
 だから存在しない。この世界では、が半兵衛に恋文を送ることはなかった。
 だが――――
『半兵衛様の事を、ずっとお慕いしておりました』
 目を閉じると、胸の辺りから溢れ出るように言葉が浮かんでくる。
『どうか未来を――――半兵衛様の手で変えてください』
 忘れぬためにこの世界で自ら文の文言を書き記したが、そんな事は不要だった。
『もし、その結果、この世界の因果律が崩れ、私がこの世界の事を忘れてしまっても――――私の心はいつもあなたと共にあります』
 幾度も読み返し、一字一句間違えぬほどに暗記している。
『どんな世界に生まれても、あなたの事を見つけるでしょう』
 文など見ずとも諳んじる事が出来る。
『どんな時代に生きたとしても、あなたの側に居るでしょう』
 魂に刻み込まれるほどに、何度も何度も。
『だから……どんな未来が待っていたとしても、どうか私と――――生きて』
 すうっと半兵衛の閉じた瞳から、透明な雫が流れ落ちた。
 涙などとうに枯れ果てたと思ったのに、未だの言葉を思い浮かべるだけで心が弱くなってしまう。
 だが、これは悲涙ではない。うれし涙だ。
 は全てを忘れてしまったが、半兵衛には共に生きた記憶がある。
 想いを告げ、夫婦となり、子を成し――――そして死んでいく。
 の人生に深く自分が繋がれた事を、そしてが自分の世界に居てくれた事を、感謝しよう。それだけで、生まれてきた意味も、死ぬ理由も、満たされるような気がする。
「最期まで一緒に居てくれて……ありがとう」
 誰にともなく呟いた言葉は、空虚な空気の中に溶けていって――――

 そして、とある水無月の日、竹中半兵衛は三十六歳の若さでこの世を去った。





「……べえさま、……んべえさま、……半兵衛様!」
 揺り起こされてハッと目を覚ますと、大きな鳶色の瞳とかちりと視線が重なった。
 驚く半兵衛に向って、目の前の少女は柔らかく微笑む。
「おはようございます、半兵衛様」
「え……、あ、俺……?」
 混乱する頭を抱えたまま、半兵衛はゆっくりと身体を起こした。
 眼下には緑の稲穂を風に揺らす田園風景。米粒のように小さな人々が、田を耕したり、牛を引いたりしているのが見えた。
「ここ……」
 半兵衛のお気に入りの場所だった。
 屋根の上に上るだけで、領内が広く見渡せる。日当たりもよく、誰も探しに来ない絶好の昼寝場所――――そう、以外は誰も、この場所を見つける事は出来なかったのだ。
 なにやら頭がぼんやりしている。
 繰り返す世界、抜け出した後の世、それを静かに閉じ――――
「なんだか……長い夢を見ていたのかな」
 呆然とする半兵衛に、はどんな夢です? と問いかける。
 半兵衛はつたない言葉で、彼の夢を語った。
 壊れた秒針の音から始まり、いくつもの世界を渡った事。未来を変えるために時限廻廊を抜け出した事。自分だけが世界の変遷の記憶を持ち続けていた事。そして、世界を渡る力を失い――――その世界の未来を受け止めた事。
 記憶はあるのに、その全てが嘘のように思えた。
 ずっと自分自身の生み出した夢の中で、迷子になっていたような気分だ。
「変な夢だよね」
 半兵衛は恥ずかしそうに照れ笑いをした。
 記憶の中の世界で、半兵衛は幾度もを失った。そのが、今はここにこうして居る。その事実があるならば、自分はこの世界を肯定しよう。今までの世界を、すべて夢にしてしまっても構わない。
 だが、はまるで半兵衛の心を読んだように、首を横に振る。
「全部、事実ですよ」
「……え?」
「どんな世界でも、私はあなたの側に居れて幸せでした。だから……夢だなんて、思わないで」
 の両の瞳にうっすらと涙が浮かんだ。それが零れ落ちる前に、は半兵衛の胸に飛び込んだ。
 ありがとう、と震える声が言う――――
「たった一人で、ずっと戦ってくださったのですね。何度も傷ついて、やり直して、辛い記憶をあなただけが持ち続けて……」
 覚えて――――いるのだろうか。
 このはあの繰り返す世界の事を、そこから抜け出すために半兵衛が何をしたのかも、抜け出した世界で半兵衛以外の皆が何もかも忘れてしまっていた事を、知っているのだろうか。
 ありがとう、ともう一度呟いて、は両目にたまった涙を指先で拭う。
 柔らかく微笑んで、
「この世界は、やり直さなくていいんです」
……」
「この世界は壊れません。私は……ずっとお側にいます」
 だから――――
『どうか私と――――生きて』
 恋文と同じ言葉が告げられたかと思うと、の柔らかな唇が半兵衛のそれに重ねられた。
 まるで唇からの記憶が流れ込むように、半兵衛は理解する。
 ここがきっと世界の終着点――――永遠の時を刻む、楽園と呼ばれる場所である事を。
 二人は名残惜しそうに唇を離すと、まるで恋を覚えたての子供のように額を合わせて笑い合った。
 半兵衛は二度と失わないように、強くの身体を抱きしめて、
「うん。ずっと俺の側に居て――――



end


世界の終着点=天国です。
こんな未来もあるのかな、と思い書いてみました。
これにて「遠き恋文」完結です。
お付き合いくださり、ありがとうございました!