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 かち、かち、かち、かち――――
 最初の秒針が鳴り始めてから二日後の朝、半兵衛は隈を作った目を擦りあげて、陽光の差す庭先を眺めた。
 初夏の涼やかな風が吹く、快晴。
 爽やかな朝だと言うのに、半兵衛の気持ちは塞ぎ込んでいる。
 ここの所、まったくと言っていいほど熟睡出来ていない。四方を尽くしての刺客の正体を探らせたが、一向に尻尾が掴めない。
 それこそ、の言うとおり虚報なのではと案じてしまうほど、まったく痕跡が見つからないのだ。
 だが、刺客は必ず来る。
 三日目の今日、凶刃でを襲う事を――――半兵衛は知っているのだ。
 それは避けられない不可避な未来となって、必ず訪れる。
 かち、かち、かち、かち――――
 耳の奥の、秒針が鳴り止まない。




時限廻廊02





 今日一日部屋から出ないで、という半兵衛の願いを、は訝しげな表情で聞いていた。
「どうして」
「どうしても」
「半兵衛様……」
「お願いだから、言うこと聞いて」
 普段の半兵衛だったら、は何の悪巧みですかと聞く耳も持たなかっただろう。だが、ここ数日の半兵衛はおかしい。
 普段の飄々とした表情はどこへやら、知らぬ顔の半兵衛の余裕が全くと言っていいほどないのだ。
 よっぽど問い質したかっただろうが、半兵衛の真剣な眼差しに決意が固い事を悟ったは、大人しく半兵衛の言葉に従った。
「分かりました……でも、明日になったら、ちゃんと理由を教えてくださいね?」
「わかった、約束する。明日になったら……必ず」
「それと……ちゃんとお休みになってください」
 の細い指先が半兵衛の頬に触れた。
 疲労を溜め込んだ憔悴しきった顔。そんな顔を見るのは、も心苦しいのだ。
 半兵衛はごめん、と小さく呟くと、の身体を抱き寄せた。
「は……、半兵衛様!?」
 突然の抱擁にが目を白黒させる。
 恋仲ではないが――――密かに想いを寄せていた半兵衛に突如、抱きしめられての混乱は絶頂を極めた。
 だが、半兵衛はそんな戸惑いすらも無視して、強くの身体を抱きしめた。
「俺が必ず守るから。絶対」
 誓うように告げると呆然とするをもう一度強く抱きしめて、半兵衛は素早く身を翻した。
 駆ける様にして飛び出す。
 何でもいい、わずかな手掛かりだけでいい。
 刺客が見つからなくても、犯人が何者か分からなくても、が無事で居てくれさえすれば。
 唯それだけを祈るのに、刻々と時は過ぎていく。
 かち、かち、かち、かち――――
 無情にも流れる時を数え、半兵衛は必死に走った。
 唯々、を守るために。
 そのためならば己の命も惜しくないと、そう願ったのに……





……?」
 すすり泣くような嗚咽に囲まれて、まるでその空間だけ世界が止まっているように見えた。
「どうして……」
 まだ、秒針の音は止まない。
 まだ、時間は――――三千二百五十六回、音が鳴り止むまで、残っていたはずなのに。
 半兵衛は体中から力が抜けるように、すとんとその場に膝を着いた。
 簡素なの私室の中で、そこだけが異質な空間になっている。
 かち、かち、かち、かち――――
 嗚咽を漏らす女達の泣き声、己の無力を悔やむ護衛たち、壁際で官兵衛が暗い表情でそれを見つめている。
 かち、かち、かち、かち――――
……起きて。起きてよ、ねえ」
 半兵衛が呼べば、いつでもすぐに返事が返ってくるのだ。どんな時も、どんな時でも、が半兵衛の呼びかけに応えなかった事などない。
 なのに――――何故。
「なんで……黙ってるの? ? 起きてよ。ねえ……ねえ!」
 半兵衛は未だ温もりの残るの身体を、ありったけの力を込めて揺さぶった。
 たった半刻前まで芯のあった身体は、いまはぐったりと弛緩し抵抗なく揺れている。
 薄く見開かれた瞳は闇を押し込めたように黒く、半兵衛に向けられているのに、彼を見ようともしない。
 薄く開いた唇は――――いつでもさえずる様な声で、半兵衛の名を呼ぶ桜色の唇は、今は真っ赤な鮮血に濡れ――――何の音も聞こえない。
「嘘だ……こんなこと、在る筈が無い。こんなこと……起こり得ないんだ」
 かち、かち、かち、かち――――
 なぜ、どうして、何が、一体……?
 次々と生まれる疑問符が、役に立たない秒針の音が、耳の中に満ちて。
「あ、ああぁあ、あぁぁぁあああああぁああ!!」
 半兵衛は絶叫にも似た慟哭を上げた。
! !? ねえ、ってば! !!!」
 大音声で名を呼び、乖離してしまった魂を取り戻すように力任せに身体を揺さぶる。
 がくがくと揺れるの頬に、半兵衛の両眼から零れた涙が伝わった。まるで自身が涙するように、それが顎の先から零れ落ちて――――
「嘘だッ!! こんなの……こんなのってないよ! どうして、――――なんで、なんで……あぁぁぁあああああ!!」
 半狂乱に陥った半兵衛を背後から官兵衛が羽交い絞めにした。そうでもしなければ、の躯を傷つけてしまうように思えたのだ。
 だが、半兵衛は力任せにそれを振りほどき、夕重の虚ろな躯に縋りつく。
「こんなの……認めない。絶対。こんな世界――――何度だって否定してやる! いっそ、こんな世界なんて……!」
 無くなってしまえ……!
 かち、かち、かち、かち――――
 秒針が、音が、高まり、視界も、鼓膜も、何もかもが満たされて行って……





!!」
 絶叫と共に、がばりと起き上がる。
 半兵衛は肩で息をしながら、辺りに視線を巡らせた。
 壁際に寄せられた本棚に散乱する書の数々。隣接する文机の上も雑多としており、いつ使ったのかも分からない湯のみが、まるで蒐集家がそうするように並べられている。
 床には書き損じの紙がそこ等じゅうに散らばり、塵入れに使っている千代紙を貼り付けた筒には、丸めた紙がうず高く積もっている。
 半兵衛の部屋だ。
 いつもと変わらない日常が、代わり映えなどするはずの無い世界がそこに広がっている。
 かち、かち、かち、かち――――
 規則正しい音を鳴らして、見えない秒針が時を刻む。
 何度でも、何度でも、正しい間隔でそれは鳴り響き――――
「あれ、起きていらしたのですか?」
 そしてまた、同じ朝が訪れる。



end


謎かけ編はここまで。
次回からこの世界の仕組みについて説明していきます。