膨らんだ腹部に耳を当てた童子が、嬉しそうに顔を上げた。
「弟でしょうか、妹でしょうか」
「さぁ……どちらかしら」
女は臨月の近い腹部を慈しむように撫でながら、やがて兄となる童子に微笑みかける。
まだ幼く甘えん坊な所があるが、下の子が生まれれば自然と兄としての自覚が生まれるだろう。子が出来たと知った時から、まだかまだかと指折り数えて楽しみにしているのだ。
弟ならば剣の稽古をつけてやろう。妹ならば宝物の鞠をあげよう。
あれをしよう、これをしようと、日々語る言葉には同じものは二つとしてなかった。
男が生まれるか、女が生まれるか、こればかりは神仏でもなければ分からない。
だが――――
「実は名はもう決まっているのですよ」
「まことにございますか?」
ええ、と女は微笑んで、息子の頭を撫でる。
懐妊を喜んだ夫が、易者やら学者やらを大勢呼んで、ずっと早くに名を決めていたのだ。
「男児ならば、殿の名を一字戴いて影重と名づけましょう。女児ならば、私の名を一字取り――――」
舞宵 27
目覚めると、自分が泣いている事にはたと気付いた。
どんな夢を見たかは覚えていない。悲しい夢だったのか、懐かしい夢だったのか、それさえも。
の勝利を秀吉は大いに喜んだと聞く。依然としてあちらも交戦状態であり、戦力を割けない中でありながら、こちらに優秀な配下の将を送ってくれた。城は大半が燃えてしまい、すぐに入城することは出来ないが、領地や降将の差配は任せて良いとの事だった。
一度、秀吉の屋敷に戻り、ゆるりと身体を休めよ、と。その心遣いが嬉しかった。
急ぐ必要はなかったが凱旋を喜ぶ兵達の足は速く、あと一両日で戻るという頃、夜営でふと気を抜いた隙に眠り込んでしまったらしい。
目が覚めると、簡素な夜具の上に寝かされており、誰かが気を利かせて運んでくれたらしかった。
未だ空には満天の星が輝いている。は夜着を羽織って、天幕の外へ抜け出た。
かがり火の前に見慣れた背中があった。
ござの上に胡坐をかいて、足元に広げた地図を熱心に見入っている。姉川の地図か。
すでに心は次の戦場へと向いている。その切り替えの早さを尊敬すると共に、には理由のわからぬ寂寥感があった。
「俺達は軍師だからさ」
と、振り返らない背中が呟いた。
「一つの戦に囚われちゃ駄目なんだと思う。次の戦へ、次の計略へ、全力で策を巡らせて、少しでも無駄に死んでいく命を助けないと」
一騎当千の猛将でも、万の兵を率いる主君でもないのだから。自分のやり方で、出来るだけの事をする。それが救えなかった命へのせめてもの償いであり、けじめであり、戦の作法だった。
「は今回の戦、どう思った?」
問われて、は言葉に詰まった。
「……正直、あっけないと感じました」
幾年も囚われ、悩み、苦悩の元であったの家が、たかが数日で落ちた。その裏では半兵衛の策略が大いに活躍した事は理解しているが、あれほどまでに拘っていた己は一体なんだったのか。
城は焼け、兄は死に、の名は地に落ちたが、やがて城は修復され、の名も別の形で引き継がれるのだろう。常世姫がいなくなるわけでもなく、自分の両眼から力が失われるわけでもない。
そうなんだよ、と半兵衛が返す。
「戦はただの行為に過ぎない。そこには人の心なんて介入の仕様がないんだ。城が燃えて、人が死んで、畑は荒れるかもしれないけど――――それに関わった人間の本質が変わるわけでもない」
だから、戦の勝敗と共に気持ちの決着が付く事はない。
それはまったくの別物だ。
すっぱりと割り切れるものでも、考えないようにする事も、癒される事もない。ゆっくりと時間をかけて、自分が納得できる形に昇華していくしかないのだ。
「泣きなよ」
半兵衛が背を向けたまま告げた。
「俺、振り向かないから……好きなだけ泣けばいいよ」
は――――黙ってその場を離れようとした。
情けない涙など、誰にも見せる事ができないし、むしろ人前でどんな風に泣けばいいのか分からない。
だが、の心に反して、煌々と輝く碧の瞳は、透明な雫をぽろりと零した。
「本当は……あんな家、大嫌いでした」
体中から力が抜けるように、はがくりと両膝を落とした。
「どうして私は外に出してもらえないのか、どうして私だけこんな目に遭わなければならないのか……そんな事ばかり考えていました。侍女達は皆、姫様をお守りするためですと説くのです。外に出れば、常世姫の力は脅威となるでしょう。戦に利用されるかもしれないし、化け物と蔑まれて殺されるかもしれない。だから隠れて、この格子でお守りしているのです。それが家のためでもあるのです、と」
夢を見るのです、とぽつり。
それは歴代の常世姫達の夢だった。
彼女達はいつの時代も、格子の中で生かされ、歳若くして散って行った。家人の手にかかった者や、病に倒れ静かに息を引き取る者。理由は様々だが、皆の家のために生き、死ぬのだ。
それに疑問を感じる事はなく、抗いもしない。
そういうものなのだと、ずっと信じようとしていた。
だが、碧の瞳で見る外の世界は楽しそうで、皆幸せそうで――――
「何度も、こんな眼、なくなってしまえばいいと思った」
ぽろりと涙がこぼれる間も、の瞳はこの世のものとは思えぬような宝玉のような輝きを放つ。
「あんな家、いっそ滅んでしまえばいいのにと――――ずっと思っていました」
長く内に秘めていた想いを吐露すると、堰を切ったように涙が溢れ出した。
「父も、母も、兄も……私の事など見てくれない。誰も私の名を呼んでくれない。どうして? 好きで常世姫に生まれたわけではないのに……っ」
大嫌い。
震えた指先が、半兵衛の羽織をぎゅっと握り締める。
大嫌い、大嫌い、大嫌い。
でも――――望みが叶ったというのに、何故未だ囚われ続ける?
格子は崩れ、囲いは解けたというのに、何故心は晴れない?
「愛していたと思うよ」
沈黙を続けていた半兵衛が、ふいに答えた。
「閉じ込めて、のこと苦しめたけど……普通の家族のようになれなかったけど、きっと……」
そうでなければ、道理が合わない。
と同じように彼等も囚われ、骨と成り、幾年も幾世代も時代を超えて、常世姫と共に生きる意味がない。
血と、名と、業と、欲と、縁と、地と、愛と――――
幾重もの檻を作り、囲いを巡らせ、堅牢な城を組み立てた理由が、ないのだ。
想いを封じ込めてきたのはだけではなかった。
皆、囚われ、口を閉ざし、眼を閉じて、耳を塞いだ。その身の中に満ちた愛情が、外に漏れぬよう。
は半兵衛の羽織を強く握り締めると、そっとその背に顔をあてた。
嗚咽の声を必死に隠すように、くぐもった声で、泣く。
半兵衛の羽織をじんわりと、の暖かい涙が濡らす。それを背に感じながら、半兵衛はじっと兄元の地図を見つめていた。
end
そろそろクライマックスです。