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舞宵 24





 先鋒に差し向けられた不破と岩手が降った報せは、大いに軍を脅かし、次々と寝返りを誘った。
 元々、は若く古参の将達をまとめるには、いささか器が狭かったと見える。勿論、将達が寝返りやすいように、事前に半兵衛があの手この手を使って、悪評や偽報を流していたのだが、やはりこのように将が主を変えるのは、彼らの真の忠義は家ではなく常世姫に向けられているが故だろう。
 かつて同じ美濃で斉藤家に仕えていた頃は、この得体の知れない一族の事を胡散臭く思ったものだが、仲間となるとこれほど心強いものはない。
 なにせ、彼らは利害ではなく信仰で動いているのである。仏教や伴天連の教えのように戒律があるわけではないが、無意識に常世姫を善とし守るという使命が、心の奥に刻まれているように思えた。
 だからこそ、この家は過去何度も侵略を受けてきたのだろうか――――半兵衛は軍を進めながら思った。
 味方のうちは頼もしいが、ここまで人の心を奪い、従える権威は野放しにしておけないだろう。今は領にしかその力は及ばないが、もしこれが地方に広まったらとんでもない事になる。
 死も恐れず、利害にも左右されない無敵の軍団を、常世姫が掌握するのだ。
 いきすぎる信仰は毒だ。きっと常世姫を危ぶむ存在に攻め入られ、更なる戦火を生む事になるだろう。かつて信長が家を攻めたように、その首を欲する者が現れるに違いない。
 そうならないためにも、自分がを守らなくては――――
 半兵衛は拳を強く握ると、眼前にそびえる翡翠城を見上げた。
 月明かりに照らされた城は、深緑の瓦を闇の色に染めて厳かな風貌を見せ付けていた。来襲に備える松明の明かりが、漆喰の壁の向こうからちらちら覗く。
 日の出と共に城を攻めると半兵衛は決めていた。通常、城を落とすには敵勢の五倍もの兵力が必要となり、兵法においても城攻めは下策とされる。敵を追い詰めすぎてしまう上、こちらの損傷も激しいからだ。
 自由に采配を許されるなら、陣を構えてじっくり攻略するか、逃げる素振りを見せて相手が出て来るのを待つべきだろう。
 だが、今回は余計な時間はかけていられない。もたもたしていては、いつ信長の気が変わってしまうかわからないのだ。
 それに寝返った将兵の士気が高いうちにかたを付けてしまいたかった。残念ながら、常世姫への信仰も完璧ではない。一度寝返った人間は、寝返りやすくなっている。もし、寝返った将兵の中に、やはりにつくのが得策と考える者がいれば、寄せ集めの軍などすぐに瓦解してしまうだろう。
 そう考えると、の味方は自分の他には誰もいないのだとさえ思えた。
 何倍にも膨れ上がった軍は、常世姫をまるで神の御印のように掲げてはいるが、いささか妄執じみて見えた。そのようにを常世姫に仕立て上げ、人々を煽ったのは自分なのだが、皆常世姫という偶像に酔っている。
 本当はもただの人間で、たまたま不思議な力を持って生まれてしまった――――ただの少女に過ぎないのに。
 皆がを人形にしてしまう。常世姫という名前も顔も、感情すらもない、ひいな人形にしてしまう。
 それを一番厭っていたはずなのに、そう仕向けたのが自分だと思うと、胃の辺りがむかむかした。






 声をかけると夜風に髪をふわりと揺らし、が振り向いた。
 左目に碧の光が集まっている。
「城内を視ていたの?」
 半兵衛の問いにはこくりと頷いた。
 すでに城内の動きは報告を受けている。となると、今視ていたのは自分の感傷故か。
「あまり千里眼を使わない方がいいよ。体力を温存しなきゃ」
「はい……」
 呟くように返事をすると、の瞳は見る見るうちに光を失った。
 本当は体力どうこうよりも、余計なものを視て覚悟が揺らいでしまう事を恐れていた。
 いくら信長の命とは言え、数年間離れた生家に攻め入ろうとしているのだ。城内には見知った顔もいるだろう。今ばかりは人形の仮面が、途端に外れてしまわないかと案じた。
「こうして城を外から眺めるのは二度目です」
 翡翠城を見つめつつ、がぽつりと呟いた。
 一度目は織田軍に差し出された時だろう。それ以外は外へ出る事もなく、ずっと城の中で過ごしていたのだ。
「常世姫である自分が外に出るなど、あの頃の私には考え付きもしませんでした」
 一生、自分は城の中で生きていくのだと信じていた。それを疑いもしなかったのだ。
 不思議なものです、とは続けた。
「常世姫の権威を一番信じていない私が、こうして軍を率いる事になるなんて」
「信じていないの?」
 の意外な言葉に、半兵衛は驚いた。はい、と詫び入れる事もなくが返す。
「どうして常世姫は、女しかならないのかずっと考えていました。同じ血を引いているのに、なぜ父や兄には常世の瞳が開かなかったのか……」
 半兵衛はふむ、と腕を組んで見せた。御伽噺の通りなら、非業の死を遂げた初代の常世姫の呪いという事になる。
 だが、祟るためならばわざわざ同じ力を分け与えるだろうか。その力を用いて家は繁栄したのだから、むしろ逆に思える。
「簡単な事でした。生きるためなのだと……、今ならそれが分かる」
「生きる?」
 は半兵衛の目を見て頷いた。
 かがり火から舞い上がる火の粉が、きらきらと瞬いて宙に消えた。
「女子は嫁します。血を多くの血筋につなぎ合わせる事が出来る。そうして自分の血を広げ、どの血脈でも常世姫が生まれるようにしているのでしょう」
「でも、家にしか生まれないんじゃないの?」
「それはの血脈が残っているからです。だから、他の家には生まれない。もしが滅びれば……別の、古くにと血を分けた一族に、常世姫が生まれます」
家はそれが偶々続いたってこと?」
「はい。きっと家に受け継がれる前には、別の家に常世姫がいたはずです。それが何らかの原因で一族が滅び、家に続くようになったのでしょう」
 そう聞くと、家と常世姫は全く別のものに見えてくる。常世姫はあくまで血を渡り、自分を庇護してくれる場所を探しているだけのようだ。
 ふと、半兵衛は気が付いた。
 だからなのだろうか。が人の心を放っておかないのは。
 無意識に男を惑わせると官兵衛は言っていた。存在自体が毒になるとも言った。それは容姿によるものだとばかり思っていたが、そうではなくこの性質のためだったのではないか。
 は知らず知らずの内に、自分の血を残せる強い血脈を探していたのではないか。
「媚態を尽くして生きているようで、私は甚だ好きません。ですが……常世姫は非力で短命だから……誰かに縋らないと生きていけない」
 は悔しげだったが、どこか諦観している風でもあった。とても岩手に向って女子は道具かと、啖呵を切った人間の言葉とは思えない。
「その常世姫が権威を振りかざすなど、それこそおこがましいですね……」
 は呟くと、自嘲的な笑みを唇に浮かべた。
 は半兵衛が思う以上に、己の分を弁えていた。本来ならば常世姫の名を名乗るのも、権威をかさに着て軍を起こすのも嫌なのかもしれない。
「本当は……常世姫もと共に滅ぶべきなのでしょうか」
 の零した暗い言葉に、半兵衛ははっと息を飲んだ。
「常世姫の系譜は血塗られた歴史です。この力が結局は争いしか呼ばないのなら、私は……」
「だめだよ!」
 半兵衛はの両肩を掴むと、目を覚まさせるように強く揺さぶった。
「官兵衛殿に生きて帰るって約束したじゃん! それにが滅んだって、何も変わらない。別の家に次の常世姫が生まれるだけだって、さっき自分で言ったばかりだよ!」
 は呆然と半兵衛を見詰めてから、恥じ入るように申し訳ありません、と頭を下げた。
「戦を前に、気が弱くなっていたようです。大将がこのような弱音を吐いては、軍の士気に関わりますね」
 士気なんて、と言い掛けて半兵衛は口を噤んだ。これ以上、を責めるのは逆効果だ。
 こんな状況で悲観的にならないはずがどうかしている。
「ずっと、のままでいたかったな……」
 ぽつりと呟いたの寂しげな言葉に、半兵衛は乱世の無常さを感じた。
 それが叶わぬ夢だと知っていながら、過酷な運命の前に零れ落ちた言葉は、の動かぬ表情の代わりに心情を吐露するには十分だった。
 明日、城を攻めればは否応なく選択を迫られるだろう。
 兄を討てるのか、を滅ぼすのか、己は常世姫として生きていくのか。
 乱世に生きる者として、決めなければならないのだ。
「戻ろうよ」
 半兵衛の言葉に、は目を瞬いた。
「いつになるかわからない。これからも、の前にはたくさん辛い事が起こるかもしれないけど、に戻れる日まで俺が守るから。だから生きる事を諦めないで」
 それは今、半兵衛がに伝えられる精一杯の言葉だった。
 保証など何もない。今後、の家を背負っていくが、自由になれる日など来るのかわからない。
 だがそれでも、常世姫という人形ではなく、として生きれる日まで自分は彼女の側にいようと半兵衛は決めた。あの微笑を、取り戻すために
「いつか……そんな日が来るといいですね」
 は淡く、寂しげな笑みで、ただ笑った。



end

色々な事への決別の戦。
次回、攻城戦です。