舞宵 21
目を覚ましたはねねの制止の言葉を無視して起き上がると、座敷に秀吉と両兵衛を呼んだ。
「ご迷惑をおかけして申し訳ございません」
深々と頭を下げようとするを秀吉は止め、
「迷惑なもんか。が生きていてくれるだけで、わしはこんなにも嬉しいんさ!」
と笑って見せた。
だが、の表情は依然として暗い。
は視線を床に落としたまま、
「私は兄を討たねばなりません……」
と小さく呟いた。
信長の出した交換条件。の城を奪い、兄を屠れと信長は言った。
かつて斉藤の重臣であった家は、斉藤家滅亡後、浅井に付き従っている。だが、その権威は健在で、浅井の与力となるも、未だ領民からの支持と武力を誇っていた。
勿論、織田の軍勢を以ってすれば討ち果たせぬ相手ではないが、朝倉・浅井という強大な敵を抱える織田に、余計な戦力を割く余裕はない。信長は討伐をに命じるも、織田勢から与えた兵はわずか五百だった。
到底無理なような命だが、今度こそ背けば首が飛ぶ。己だけの首ならまだしも、今回は秀吉達をも巻き込んでしまった。にとってそれが一番の気がかりだった。
「はそれでいいの?」
心の内を確かめるように半兵衛は反問した。
は戸惑いの表情を一瞬見せたが、きっと毅然にも顔をあげると、はい、と確かに頷いた。
「今の家では戦国乱世を生き抜く事はできません。織田が攻めずとも、いずれ何処かの勢力に滅ぼされるでしょう。ならばせめて……出来るだけ血の流れない方法を選びたい」
「そのために己が手を汚す覚悟はあるのか?」
官兵衛の問いかけにの瞳が揺れた。
まだ完全に心を決められてはいないのだ。
「最善は尽くすつもりです……。兄が降伏してくれるならそれに越した事はありません。でも、もし、抗う時は……」
は口を噤んだ。
片目だけ開かれた瞳に碧の光が集結する。それは覚悟の色だった。
「どうか私に力をお貸しください」
は深く叩頭すると、縋るような顔で三人を仰ぎ見た。
薄暗い執務室の文机の上には、真新しい地図が広げられている。
半兵衛はそれを食い入るように見つめながら、脳裏で幾度もとの戦を思い描いていた。
美濃と近江の国境にそびえる古城が家の居城である。俗に翡翠城(かわせみじょう)と呼ばれる深緑の瓦の城で、山の緑に隠れるように建っている。
堅城と名高い稲葉山城ほどではないが、国境を守る城に相応しくなかなかに固い城である。正攻法で攻めては到底落とす事など出来ない。しかも、は出来るだけ血を流したくないと言っていた。ならば敵味方とも損害を大きくする攻城戦など論外だった。
「やっぱ常世姫の力を利用するしかないか……」
半兵衛は呟くと、はあっと深くため息を漏らした。
同室で政務を行っていた官兵衛が何を今更とばかりに、馬鹿にするように鼻を鳴らす。
「何を躊躇う事がある。あれを旗印に戦を起こすなら、利用せぬ手はあるまい」
「うん、まあ、そうなんだけど……」
を攻めるのに、一つ厄介なのは領民や野伏、商人といった美濃に住まう者達の心情である。の領地に住まう者達は、一概にして帰属意識が強い。普段はてんでばらばらに生きる彼らだったが、外からの敵に対しては一個団結して戦うのだった。
これは他の領地には見られない特性で、かつての主家である斉藤家も、今の支配者である織田家も、しばしばこれに苦しめられる事があった。
彼らの心の中には、常世姫への信仰がある。これは古くより、常世姫の千里眼が領民達を助けて来たと言い伝えられるためだった。
だが、常世姫は現実的には存在しないものとされている。故に常世姫への信仰は、それを擁する家へと自然と向けられているのだった。
普通に戦えば領民は敵に回るだろう。だが、こちらの大将が常世姫であれば――――?
領民達は大いに悩むに違いない。
「の存在を全面に知らしめて、こちらの正当性を主張する。織田がただ攻めるだけならそれは侵略だけど、常世姫が攻めるなら常世姫の権威を勝手に振り回す家を、成敗するっていう大義名分が生まれる」
正義は我にありと、高らかに叫ぶ事が出来るのだ。
そして、常世姫を信仰する者達を味方につける事ができる。
だが――――常世姫である事を一度捨てたに、その役をさせる事は果たして正しいのか。半兵衛は戸惑いを感じていた。
再び感情のない人形へ、利用されるだけのひいなへ戻れというのか。
半兵衛の心中を察したように、官兵衛が仕方あるまい、と呟いた。
「甘い考えを捨てねば、乱世では生き残れぬ。躊躇えば次こそは首が飛ぶ」
「うん……」
分かってはいるのだが、の事を思うと、素直に策を立てる事が出来なかった。
今頃――――残された片目ではの家を見つめているのだろうか。かつて去り、数年の時を経て、武装して生家に戻らなければならない事を、どう感じているのか。
の微笑が失われないようにと、半兵衛はただそれを願った。
end
戦う決意を決めました。