舞宵 16
「あああああああ、えらいこっちゃ! こりゃあまずい。ものっすごくまずい。普通になしじゃろ」
先ほどから秀吉はぶつぶつと呟きながら、狭い屋敷の一室を行ったり来たりしていた。
同じ床の間の下座には、官兵衛と半兵衛が丸茣蓙に鎮座している。
官兵衛は正座を崩さぬまま静かに瞑目し、半兵衛は胡坐をかいて行ったり来たりしている秀吉の動きを目で追っていた。
「秀吉様、落ち着きましょうよ」
半兵衛の言葉に、秀吉はくわっと目を剥くと、彼には珍しく険のある口調で突っかかった。
「落ち着け!? これをどう落ち着けっちゅうんじゃ! 元はと言えば、お前達が……」
言いかけて、口を噤む。
その続きを口にするべく、官兵衛が目を開いた。
「あれの首を落としておくべきでしたかな?」
「違うっ! はわしの大切な家族じゃ! 娘も同然! そのの首を落とすなんぞ……ああああああ、わしぁどうしたらええんじゃっ!」
秀吉は頭を抱えて、大声を張り上げた。
金ヶ崎の退き口から数日。決死の撤退戦のおかげで信長は京に逃れ、秀吉達一行も無事に生還を果たした。
だが、喜びもつかの間、秀吉の頭を大いに悩ませる出来事が起こった。
先の戦での出生が明らかになり、その正体がかつて死んだと言われたの常世姫だったと知れたのだ。
あの日――――金ヶ崎の退き口にての窮地を救ったのは官兵衛だった。の動揺の原因を知り、官兵衛は口を塞ぐべく、の兄を討とうとした。
だが、それを止めたのはだった。
『官兵衛様っ! どうか……どうかお許し下さい!』
の必死の反抗に官兵衛は男を討つ好機を逸し、みすみす逃すはめになった。
そして、の存在は瞬く間に諸国に知れ渡ったのだった。
「あああああ、困った。信長様の命に逆らった挙句、今日までを擁しておったんじゃ。しかもそのがを討つ契機を逃した……秀吉に二心ありと疑われても文句は言えんじゃろ」
うろうろと部屋の中を歩き回りながら、秀吉は深い嘆息をついた。
かつての命を救ったのは秀吉の軍師、官兵衛であり、両兵衛の片翼でもある半兵衛もその事実を黙認していたと言う。主君を謀っての二人の策謀だが、端から見れば秀吉の命でそう動いていたように見えなくもない。
「秀吉様。あれの一件はすべて私に責がございます」
官兵衛は膝を前に押し進めた。
いずれこの日が来れば、黙って罰を受けようと官兵衛の覚悟は決まっていた。
だが、秀吉は首を横に振る。
「違う。違うぞ、官兵衛。わしはお前達を責めとるんじゃないんさ。むしろ、よくぞ今日までを生かしてくれた。その事には礼を言う」
秀吉は官兵衛の前に膝をつくと頭を下げた。
それは主君が臣を庇うというより、むしろ親が子を庇うような素振りだった。
「じゃが……信長様はお許しにならんじゃろ」
秀吉は再び深い嘆息をつく。
「いずれ、信長様より沙汰がある。その時、をどうしろと仰るのか……」
秀吉はの身を案じるように、離れにある蔵を見やった。
金ヶ崎の戦より戻り、は自ら蔵に篭り、外から閂をかける様に秀吉に言った。
すでに自分の存在が世に知れ渡り、秀吉の立場を危うくすると察しての事だった。
蔵の中には小さな明り取りの窓があるだけで、ほぼ暗闇と言っても良かったが、はその千里眼の力で外の光景を手に取るように知る事が出来た。
勿論、千里眼で得られるのは視覚的な情報のみだったが、屋敷で秀吉達がどんな話をしているのかは、食事を運んでくるねねや清正から聞く事が出来た。
「そう。秀吉様にご迷惑をかけてしまっているのね……」
扉の隙間から食事を受け取りながら、は小さく呟いた。
ああ、と答える清正の顔は暗い。事情を知らない清正にとって見れば、秀吉を主人とするこの家が、今後どうなってしまうのか不安で堪らないだろう。
清正のためにも、自分は素直に信長の沙汰を受け入れるしかない。はそう考えていた。
「お前……本当に視えるのか?」
清正が押し殺した声で尋ねた。
は扉を隙間に顔を覗かせると、両眼に力を込めた。蛍の光にも似た幻想的な輝きが双眸に集い、清正ははっと息を飲んだ。
翡翠のような碧緑は人に許された色ではない。
あやかし、魔性、化け物。そんな言葉が清正の脳裏に浮かんだ。
「どうして黙ってたんだよ」
清正の口調は怒気を孕んでいた。
話せば危害が及ぶから黙っていたのだと、分からぬはずはない。
だが、秀吉にもねねにも自分にも話してくれなかった事を、清正は水臭いと感じた。
常世姫が人であろうとなかろうと、同じ時を共に過ごして来たのは事実だ。そう簡単に割り切れるわけではなかった。
はごめん、とだけ呟いた。
碧の瞳が悲しげに揺れている。
「私にもしもの事があったら……その時は、皆の事をよろしくね。三成も正則も、まだ幼いところがあるから」
「知るかよ……なんだよ、もしもの事って!」
は答えなかった。
もう一度だけ、ごめんね、と呟くと扉を閉じてしまった。
取り残された清正は、やりきれない思いでずっと閉じられた蔵の扉を見つめていた。
end
ヒロインの出自がついに知れ渡る事に。
他の話に比べて、清正がちょっと子供っぽいですね。