舞宵 09
が官兵衛に、命令の撤回を求めたのはその日のうちの事だった。今まで一度として自分に背いた事などなかったからの、思いがけない願い出に、官兵衛は驚きを露にした。
半兵衛が何か吹き込んだのだろうと容易く推測する事ができたが、あえて何も言わず、好きにせよ、とだけ伝えた。
は神妙な面持ちで頭を下げると去っていった。
そして――――
「卿の仕業か」
陣幕の裏で寝転んでいた半兵衛を官兵衛が訪れたのは、それから間もなくだった。
「何のこと?」
「惚けるな。あれが先刻、私の所へ来た」
「へぇ?」
「何を吹き込んだのかは知らぬが、私の心算を無にしたのだ。当然、詰まらぬ問題は起こさぬと誓えるのだろうな?」
何を今更、と半兵衛は肩をすくめた。
「いい加減、信用してよ。そりゃは可愛いけど、理性を失って襲いかかるなんて、思春期の餓鬼じゃないんだから」
そう言って茶化してみたが、無表情な官兵衛の顔に笑みはうかばなかった。
「卿にはとっくに毒が回っていると思ったがな」
冷ややかな視線が半兵衛の胸を刺すように注がれる。
正直に言えば、あの日――――を月明かりの下で見た時、半兵衛の心に薄暗い欲望が芽生えたのは事実だった。
漂うような儚げな姿であるのに、どこか男の心を誘うような妖艶な姿。形を変える月のように、現と幻、聖女と遊女のような二面性を併せ持つその危うさが、心を掴んで離さない。
だが、幻は幻だ。本人にはその幻は見えていない。
故にその幻の姿に手を伸ばす事は、決して許されないのだ。
もし手を伸ばせば――――
「首が飛ぶな」
半兵衛ははっと顔を上げた。
「一切の略奪・姦通行為は軍規で厳しく禁じられている。兵の模範となるべき我らがそれを破るわけにはいくまい」
一瞬、鬼の手で罪人を押し潰した、官兵衛のあの時の表情がちらついた。
あれはもしかしたら――――官兵衛の嫉妬だったのではないか、と半兵衛は訝った。
半兵衛があの時感じたように、官兵衛にもまた一番の側近を陵辱されかけた怒りが渦巻いていたとしたら――――
考えかけて、半兵衛は己の思考を霧散させるように首を振るう。
「俺を信用してよ、かんべー殿」
半兵衛が笑いかけると、官兵衛は呆れたように仏頂面を作った。
は千里眼で空の彼方を見つめながら、呆然と半兵衛の言葉を思い出していた。
『は官兵衛殿の事も好きじゃないの?』
まただ。また、あの男の言葉が胸に引っかかる。
「も」というのは、自分の事は好きではないのかと聞いた、あの問いかけを含めているのだろう。
最初に告げられた言葉よりも、今日の言葉は衝撃的だった。
ずっと自分は官兵衛に対しては好意を以って接しているのだと思っていた。だから命に従い、この能力も彼の指示のままに使った。
だが、それはただ言われた言葉を受け入れて来ただけだ。正直に言えば、好きとも嫌いとも考えた事などない。
偉大な軍師だと思っている。その智謀に感服し、敬意を持っている。だがそれは好意とは別のものだ。安芸の毛利元就のことを人は謀神と呼ぶが、その評価と大して変わらない。官兵衛個人をどうこうと考えるのとは違う。
あの時流れた涙は、その真実に気付き、衝撃を受けたからだった。
自分が悲しいと感じたのかはわからない。だが、自分はそういう人間なのだと、落胆と失望が織り交ざったような心地が胸に広がっていった。
竹中半兵衛はどうなんだろう――――
は膝を抱え込むようにして、あの小柄な軍師の事を考えた。
知らぬ顔の半兵衛。
私はあの人の事が好き? 嫌い――――?
「はきっと誰のことも好きじゃないんだろうね」
ふいに口にした半兵衛の言葉に、官兵衛は片眉を上げた。
「それは卿が無残にも敗れたという意味か?」
いささか言い口が意地悪なのは、官兵衛の忠告を半兵衛が無視したせいだろう。
そうじゃないって、と半兵衛は苦笑を漏らす。
「俺との仲はこれからだからいーの。そうじゃなくて、あの子に何が足りないんだろうってずっと考えてたんだよね」
「ほう?」
「に欠如してるのは自分なんじゃないのかな。感情とか感覚といってもいいかも。と話をしてると、自分の事でも妙に客観的すぎるんだよね」
以前、が自分の生い立ちを語った時の違和感。自分の記憶を記録として語る癖を、半兵衛はそう分析した。
「でも、本物の人形みたいに全く感じないわけじゃない。実はさ、さっきのこと、泣かしちゃったんだ」
悪戯した子供のように舌を出した半兵衛に、官兵衛はあからさまに剣呑な空気を向けた。
「卿は一体何がしたいのだ」
「あー、待って、怒らないで聞いてよ。泣かせたのは悪かったけど、俺、正直感動したっていうか……の心にもちゃんと響くものがあるんだ、って」
半兵衛は人差し指を立てて、虚空に円を描くようにくるくると回した。
「はさ、誰の事も好きでもないし、嫌いでもないんだと思う。そもそもそんな事を考えたりしないんだろうね。でも、それってとても不幸な事だよ。どんなに人に愛されても、それに気付けないって事なんだから」
「卿の慕情のようにな」
意地悪く官兵衛は呟くと、
「官兵衛殿の過保護もね」
と、仕返しとばかりに半兵衛がにやりと笑みを作った。
「常世姫って名前が与えられず、何代目って呼ばれてたんでしょう? みんな一括りに常世姫で、個人としてのは存在しなかったんだ。そんなんじゃ、心を塞いじゃうのも当然だよ。生まれた時から個人としての人格を、否定されてるんだから。だったら、人の気持ちも自分の気持ちも、感じない方がよっぽど楽だよね」
そして人形の顔を作るのだ。感情の抜け落ちたような顔で、硝子の瞳から世界を覗く。
「だからさ。俺達が一つ一つ気付かせてあげればいい。はとして生きて、色んなことを素直に感じていいんだって」
官兵衛は無言で半兵衛の笑む顔を見ていた。
の凍りついた顔は生まれ付いてのものだ。あの秀吉やねねでさえ、の心を完全に開くことはできなかった。
それを半兵衛なら出来ると言うのか。
確証はない。
が、何の勝算もないまま、この今孔明と名高き半兵衛が口にするとは思えなかった。
「好きにせよ」
官兵衛が素っ気無く答えると、違うよ! と半兵衛が唇を尖らせた。
「俺達って言ってんじゃん。勿論、官兵衛殿にだって協力してもらうからね」
「……何故、そうなる」
「が可愛くないわけ? それにが変な色気を発揮しちゃうのも、あの性格が一つの原因だとも思うんだよねー。無関心というか無頓着というか、ぽーっとしてるから御しやすそうに見られるっていうか」
「どうだかな」
だが、が自覚を持つことであれが防げるならば、それに越した事はない。当然、どうあっても欲を抑えきれない不埒者は、が駄目なら別の女を狙うだろうが、少なくとも官兵衛がわざわざ出向いて処分をつける必要がなくなる。
「ま、それで最後には、俺の愛に気付いてめでたしめでたしっていうのが理想系だけど……官兵衛殿、手伝ってくれる?」
「保障はできんな」
そんな事言わずにさぁ、と笑いながら半兵衛は官兵衛の肩を強く叩いた。
end
なんだか変な終わりですが、ひとまず序盤はこれでおしまい。
次回からもうちょっとラブい展開があるはず(たぶん)